鮮卑拓跋氏を歴史に登場させたのは、
司馬氏、のちの西晋帝室の司馬氏である。
西晋司馬氏が鮮卑拓跋氏を育てて、自身に利用。
その後、異民族として謀略で崩壊させた。
少々酷薄な話だが、
これが、
政治の真実である。
●258年司馬昭が鮮卑拓跋氏を認めたことが勢力の起源。
鮮卑拓跋氏の興隆は、
258年に始まる。
拓跋力微が魏、実際には魏の最高権力者司馬昭と手を結んだことがきっかけであった。
司馬昭は、禅譲への道を歩むのに鮮卑拓跋氏を利用。
拓跋力微は、魏との交遊、もっと言えば、交易で大きなメリットを得る。
司馬昭は禅譲あと一歩で急死するが、息子の司馬炎がその果実を得て、
皇帝となり、西晋王朝を開く。
一方、拓跋力微は、漠北で大きな勢力を築き上げた。
●拓跋力微は西晋と関係を保持して漠北の覇者となる。
拓跋力微は、漠北で力を蓄えた後も、
西晋との関係維持を怠らなかった。
定期的に朝貢し、西晋の傘下に居続ける。
のちの歴史を知る我々からすれば、少々意外にも思える。
異民族たちの群雄割拠する五胡十六国時代や、
鮮卑拓跋氏こそが五胡十六国時代を
終焉させた北魏を立ち上げるわけであり、
北魏・鮮卑拓跋氏は西晋に反抗的であるという先入観すらあるが、
そうではない。
とにかく、拓跋力微は、西晋に忠実であった。
当然と言えば当然なのである。
歴史は、前後の経緯で見る必要があるが、
歴史上の人物の立場になって考えるときには、
俯瞰して見過ぎてはいけない。
案外と、局地的なものだ。
そのシチュエーションをどう生き延びるのか、
ただそれだけを考えているものだ。
現状で満足していればそれ以上を求める必要はない。
拓跋力微は、
鮮卑族の一部族から、西晋(当時は魏)の司馬昭に認められて、
他部族を凌駕した。
拓跋力微の台頭ぶりは、既に立志伝中の英雄的存在であっただろう。
拓跋力微が西晋との関係を絶対に悪化させるわけにはいかない、
絶対に西晋との関係を維持する。
それこそが漠北での優位を保つ最適解であったのだ。
●拓跋力微が目障りになる西晋司馬炎。
拓跋力微は、長子の拓跋沙漠汗を
西晋に遣わして朝貢する。
鮮卑拓跋氏勢力として西晋との関係が、
最もプライオリティが高いのだから、実子を遣わす。
しかしながら、
西晋は拓跋力微がこれ以上力を持つことを嫌がった。
どうしても古の匈奴がちらつくのだ。
前漢高祖劉邦が白頭山で匈奴の冒頓単于に敗れてから、
漢民族対異民族の因縁は続く。
西晋は中華をほぼ掌中に収めると、
次の脅威は異民族なのだ。
その異民族の中でも、古の匈奴の位置にいる存在が最も嫌なのである。
それが鮮卑拓跋氏の拓跋力微なのだ。
西晋皇帝司馬炎は衛瓘の進言を採用し、
鮮卑拓跋氏に策略を仕掛ける。
拓跋力微とその子拓跋沙漠汗に離間の計を仕掛ける。
拓跋力微はこれに引っかかり、
拓跋沙漠汗を殺してしまう。
何を拓跋力微は疑ったのか。
拓跋沙漠汗が西晋に寝返ったとされるがこれでは舌足らずな説明である。
この状況下で最も正しい説明は、
西晋皇帝司馬炎が、鮮卑拓跋氏の首長を拓跋沙漠汗にしようとした、
ということである。
拓跋力微は西晋の承認の下、勢力を伸ばしてきた。
その後ろ盾がなくなれば、拓跋力微は終わる。
そうならないように
拓跋力微は丁寧に西晋と接してきた。
そのような父の姿を知っていて、そして最も信頼していたはずの、
長子拓跋沙漠汗に裏切られたと知れば、
それは大変な狼狽であろう。
拓跋力微はそれで長子拓跋沙漠汗を殺した。
しかし、それがすぐに誤りだと知る。
そしてその直後に拓跋力微も死ぬ。
自然死のような書かれ方だが、その実態はわからない。
既に病気だったのかもしれないが。
●策士衛瓘の参考記事
●参考図書:
シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))
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