東晋から南北朝の時代において、
度々名前の挙がる、「土断法」。
現代に合わせて、「法」という言葉を付けるが、
史書上ではただの「土断」である。
この土断法の発案者は、
西晋の衛瓘である。
この人物は意外と重要である。
●衛瓘のプロフィール
衛瓘とは誰か。
三国志が好きな人であれば、
三国志の最後の最後に出てくる人物として覚えているのではないか。
●蜀漢を滅ぼす成果を挙げた一人
司馬昭が263年、鍾会と鄧艾を使って、蜀漢を攻めたとき、
鍾会に付属された監軍である。
監軍とは、皇帝の委任を受けて、軍の監察を行う。
戦地において、軍の総帥が簡単に言えば裏切らないように、
監軍という、日本風に言うと、御目付を付けるわけだ。
後に、
鍾会、鄧艾は蜀漢を滅ぼす。
まず鄧艾に専権の振る舞いが出て、
衛瓘がこれを逮捕。洛陽へ移送。
その後、鍾会が反乱。しかしながら、これは失敗。
鄧艾は、まだ蜀を出ていなかったが、
許されて報復されるのを恐れて、
衛瓘は鄧艾を現地にて処刑する。
●衛瓘の異民族政策。
衛瓘は、司馬昭・司馬炎に高く評価された。
上記の対応をするも、蜀漢を滅ぼすまで持っていったのは事実である。
また、衛瓘は各地の行政官として非常に高い業績を挙げていた。
徐州、青州にて、都督諸軍事として、
内政、軍政を預かり、成果を挙げていた。
その中でも、
271年から都督幽州諸軍事についたのち、
異民族を抑え込む。
烏桓と鮮卑拓跋氏を西晋は抑え込むことはできず、
辺境を度々荒らされていた。
これを衛瓘は、
烏桓と鮮卑拓跋氏を対立させ、烏桓を西晋に帰順させる。
鮮卑拓跋氏は、当主の拓跋力微とその息子の拓跋沙漠汗を
反目させ、自滅させる。
異民族を抑え込んで、ますます皇帝としての権威を高めた司馬炎は、
衛瓘をより評価する。
283年に、
衛瓘は司空、侍中、尚書令となり、臣下のトップクラスまで昇る。
●八王の乱、最初の勝者
290年に司馬炎が崩御。
恵帝が即位。
外戚の楊氏が力を振るうのを、
恵帝の皇后賈后は嫌い、
宗族の司馬瑋に命じて、殺害。
のちの政権を、
司馬亮(司馬昭の弟)と衛瓘に委ねる。
衛瓘はここで録尚書事となり、臣下のトップとなった。
合わせて、剣履上殿・入朝不趨の特権をもらい、
さらにその上をいく。
しかしながら、
融通が利かないことを不満に思った賈后は、
宗族に命じて、
司馬亮・衛瓘を殺害する。
●衛瓘が土断法を提案した背景。
西晋の武帝司馬炎が、
貴族・名族の私有民化を問題に感じたためである。
●私有民という問題が発生する経緯。
民は、居住地にて戸籍を作る。
この戸籍は、徴税・賦役のためである。
しかし、民が逃げることがある。
例えば、罪を犯したりするとその土地から逃げる。
こうした民を名族たちが吸収してしまう。
こうした民は、戸籍がある土地にいないので、
徴税・賦役を課せない。国家として課すことができず、
これは国家としての財産が減っていることを意味する。
名族はこうした民を回収しても、この土地で戸籍を新たに創るわけではない。
名族たちは、これを名族たちの私有民にしてしまうのである。
●万物を所有するはずの中華皇帝司馬炎は我慢する。
本来、中華皇帝というのは万物を所有する。
しかしながら、
西晋期においては、
貴族・名族の力が非常に強くなっていた。
(ここでは名族という名前に統一する。)
そもそも、
司馬炎自体が、河内司馬氏という名族の出身で、
西晋自体が、
河内司馬氏を頂点とした、名族王朝でもあった。
そのために、
旧来からの、名族たちが力をそれぞれつけていく。
司馬懿が251年に行った、改正九品官人法は名族の力を強化するものであった。
それも、司馬炎が禅譲をするため、
また、呉などの外敵がいるうちは我慢するほかなかった。
しかし、
280年に、司馬炎が中華を統一。
司馬炎の権力が絶頂になる。
そこで
この名族たちの私有民化が問題となった。
これが衛瓘による土断提案の背景である。
●土断とは。
土断法とは、
下記のブログ記事をご覧いただきたいが、
西晋期においては、
皇帝権の強化である。
皇帝集権の達成である。
逃げた民をその土地で戸籍に組み込む。
そうして国家、国家という概念はわかりやすいので、
ここでは使うが、当時は国家という概念はない。
この場合の国家はつまり皇帝である。
逃げた民をその土地で戸籍に組み込む。
そうして、皇帝の財産に再度する。
徴税・賦役を課す。
そういうことである。
東晋視点からの記事は下記をご覧ください。
衛瓘の提案(史書では司馬亮との共同提案になっている)を受けて、
小規模ながらも、土断は行われた。
この土断が大規模なものになっていくのは、
西晋が江南に逃げて、のちに東晋と呼ばれる王朝になってからである。