北魏道武帝拓跋珪。
一代で北魏帝国を創業。
親征を多々行い、武勇に優れた人物の印象が強いが、
実は拓跋珪は、これまでの異民族皇帝とは異なった政策を行っている。
その一つが、
「諸部族の解体」である。
目的は、拓跋珪自身、皇帝への集権である。
これにより、拓跋珪は異民族の君主ながら、
つよい君主権を握ることに成功した。
これが北魏拓跋珪の政治、軍事両面での強さを生む。
●異民族君主の問題点
異民族の長というのは、
唯一絶対の存在、というわけではない。
荒々しい印象からは想像できないが、
実は権限が限定された、存在であった。
各諸部族の長が連合して、
誰か適切な人物を選定。
その人物をこの異民族連合の長としていた。
異民族連合の長は、ある一つの諸部族を率いるものの
ほかの諸部族に対して支配権はない。
むしろ、この異民族連合の長は、
諸部族の長たちに選ばれている。
選挙である。意見を言うことが基本的にはできない。
うまく利益が分配できれば非常に強い権限を振るえるものの、
できなければ、非常に弱い立場に置かれる。
それが、異民族の長であった。
●異民族君主のそもそものゴールは?
異民族連合の長の目的は、
諸部族の長たちを満足させるために、
例えば戦争に勝って、人間、家畜、文物を得て、シェアすることである。
交易することである。
利益獲得を共通の目的とした集団である。
つまり、自分を推戴した、部族長たちを
対外的に獲得した利益を分配して分け与える、
これが、異民族君主のゴールである。
中華から見て異民族というのは、
基本的に遊牧文明である。
彼らは、定住しない。
馬、羊、山羊などを率いて、草を求めて常に移動する生活を送る。
だから、農耕文明の中華のように、都市という定住地を必要としない。
彼ら異民族は、
各部族ごとに家畜を率いて、動き回る。
部族という人間と家畜の集合体が生活の組織単位となる。
なので、互いにオアシスの争いや草地の争い。
家畜の盗みあいなどがある。
そうなると、当然疲れるわけで、ある程度争いあうと、
一つの集団にまとまって、落ち着きたいとなる。
それがこの部族連合となる。
この部族連合の長は、時代ごとに、
単于、大可汗、ハーン、という名前で呼ばれる。
この部族連合は、
前漢期の匈奴に始まり、清まで続く。
例えば、
●チンギス・ハーンも清朝皇帝も同じ。
チンギス・ハーンが選ばれたクリルタイという会議も同じである。
諸部族を集めてチンギス・ハーンを推戴した。
結局のところ選挙である。
チンギス・ハーンが死ぬと、クリルタイを
開いて、オゴタイ・ハーン(オゴテイ・ハーン)を推戴する。
モンゴル帝国も、この諸部族長による推戴である、
ということがわかる。
清朝の皇帝は、
満州族に対しては諸部族の長として君臨していた。
満州族の諸部族が推戴という形であった。
つい100年前まで、
中華から見た異民族において続いていたのが、
諸部族連合の長による選挙というシステムである。
●よって非常に不安定な立場の異民族君主。
さて、
この異民族における諸部族連合。
共に同じ利益を得るための集合体であるという説明を上記でした。
意外とボトムアップなのである。
そのため、連合している諸部族の長に気を遣わなければならなかった。
それは北魏道武帝拓跋珪でも例外ではなかった。
非常に不安定な立場なのである。
決して世襲が約束されていたわけではなかった。
結果的に世襲になることは多いが、基本的には諸部族長による選挙である。
世襲だとしても、
先代の長の子供のなかで、
自分たち諸部族の長たちに最も利益をもたらしてくれそうな人物、
そうした意味で優秀な人物が選ばれることになる。
なので、
異民族の君主が死ぬと、その子供たちは、相争うことになるのである。
●拓跋珪は一気に皇帝集権を実現する。
北魏道武帝拓跋珪も例外ではなかった。
拓跋珪自身が自立するまでに、独孤部や賀蘭部の支援を受けており、
それぞれが小さな国のような単位で、力を持っていた。
たとえ拓跋珪が北魏のトップとなったとはいえ、
彼らの支持が重要であるので、
拓跋珪は彼らの意向に配慮しなければならない。
しかし、拓跋珪はこれを嫌った。
後燕や後秦と戦うにあたって、
このような連合制の体質は機動性にかける。
そこで、異民族の君主として初めて、
これら部族を解体したのである。
●拓跋珪による具体的な部族解体策。
拓跋珪は北魏傘下の諸部族を、
帝都平城周辺に集住させる。
そこで、諸部族が持っていた部族に所属する民に対する
統治権を北魏に回収したのである。
集住させた民は、
八つの部に再編する。(この八部、清朝の八旗に通じるものである。)
こうして、諸部族長から諸部族の統治権を奪い、
北魏皇帝直属として、諸部族の権限を著しく減らした。
こうして、北魏はほかの異民族と比べて、
非常に大きな皇帝権を有することができた。
他国と交戦しても、
すぐに兵を集めて出兵ができる。
この兵は北魏皇帝拓跋珪の直属であるので、
この軍隊には拓跋珪の存在が必要である。
そのため、拓跋珪は自身で親征をすることが多くなった。
なお、
この八つの部に再編成するという政策は、
満州国家の清における、八旗と同じである。
その由来が北魏拓跋珪の政策にあるのである。
●皇帝集権化は、五胡十六国時代の政治課題。
なお、
漢民族社会においても、
皇帝への集権というのは積年の課題であった。
五胡十六国時代を通じて、
皇帝の集権というのは、時代に通じる政治課題であった。
中華皇帝のもとでは、
各貴族が各封邑で領主化。
貴族が力を持ちすぎて、皇帝の力が及ばなかった。
これが表面化したのが、西晋・東晋の時代である。
これを抑制しようとしたのが、衛瓘が発案した土断法である。
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