歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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拓跋珪による本格的漢人統治。北魏皇帝と清河崔氏の因縁の始まり~崔逞の嫌味~

 

「拓跋珪が初めて異民族皇帝として漢人統治を本気でしようとする。」

 

 

 

五胡十六国時代というのは、

胡漢融合の歴史である。

 

中華文明が成熟。その文明力に惹かれた北方異民族が中華に侵入してくる。

異民族と漢族が、衝突、融合を繰り返し、

徐々にその民族差異がなくなっていく。

 

様々な事件が起きるが、

道武帝拓跋珪の時に、一つ象徴的な事件が起きる。

 

北魏皇帝である拓跋珪が、

漢人官僚の高官である、崔逞を不敬として処刑するのだ。

 

●拓跋珪が崔逞を不敬とする経緯。

 

 

「中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝) | 川本 芳昭氏著」P98から引用開始======

拓跋珪が後燕を攻めたときに、

兵糧が欠乏したので、現地での調達方法について、群臣に諮った。

その際に、崔逞は、

「桑の実をとって食糧になさい。昔、フクロウは桑の実を食べて

声が良くなったと聞きます。

儒教の経典である「詩経」にそのことが載っています。」

 

この発言に対して、拓跋珪は自分たち鮮卑族を侮辱する発言として激怒し、

崔逞に自死を命じた。

 

これだけだとわかりにくい話だが、

詩経の当該文をわかりやすく意訳すると、 

「フクロウが桑の実を食べたら声が良くなった。

そうしたら淮水の地に住んでいた夷狄が貢物を献上した」というものである。

 

 

「中華の崩壊と拡大(魏晋南北朝) | 川本 芳昭氏著」P98から引用終了========

※文章を筆者が少し簡略化している。

 

実際には、これだけで拓跋珪は崔逞を自死させたのではなく、

後に東晋返書事件において、東晋皇帝を尊重したことで、

自死させたのだが、上記引用に沿って、

少し解説する。

 

拓跋珪は、後燕を攻めている。

そこで兵糧が足りなくなった。

その解決策として、崔逞は桑の実を食べろという。

その故事は詩経にも載っていると。

 

詩経の由来は、フクロウが桑の実を食べたら、夷狄が従属した。

つまり、北魏軍が桑の実を食べたら、後燕は従う、

屈服させられる、ということである。

 

崔逞は、拓跋珪の北魏軍をフクロウ扱いしたというわけである。

獣扱いにするという時点で、中華の概念からすれば既に問題である。

 

さらにいうと、

フクロウというのは、

中国において、不吉な鳥として好ましくない存在なのだ。

伝承だが、ひなが母鳥を食べるという話があり、

親不孝者とされている。

 

漢人の崔逞が、

鮮卑拓跋氏に対して親不孝者と婉曲的に批判する。

 

漢人が漢人に対してしたのであれば、相当な侮辱行為である。

しかし、鮮卑族からすれば、我々日本人にとってフクロウは

「福」に通じるとして良い方で捉えるがごとく、

本来はピンとこなかったはずだ。

 

しかし、これは明らかに崔逞が拓跋珪を始めとした鮮卑拓跋氏を

けなす行為なのである。

 

拓跋珪は、崔逞の意図を認識し、

不敬として憤慨する。

 

(しかし、

上記の私の記述のように、

この際には罰は下さなかった。)

 

 

●漢地の統治には漢人官僚が不可欠。

 

異民族の皇帝が

漢地を統治するには、漢人官僚が必要である。

 

何故なら、漢地を統治するには、文書行政を運営しなくてはならないからだ。

行政文書を理解することで指示を受け取る。

それをもとに、漢文で行政文書を発行することで、

指示を出す。

 

漢文を操れなくてはならない。

 

漢文による文書行政が運営できると、

官僚組織が稼働する。

 

そうすると、

租税を調達したり、軍役を含む賦役を課したりすることができる。

 

この官僚組織のトップは当然皇帝である。

しかし、異民族の皇帝の場合には、

漢文が理解できない。

 

自分の言葉で、命令を下せない。

そのために、例えば、

拓跋珪であれば鮮卑人なので、

鮮卑語を漢語に変える秘書が必要である。

 

漢人の官僚機構マネジメントのために、

漢人の官僚が必要である。

 

このようにして、

異民族の皇帝が強い軍事力で漢地を奪ったとしても、

漢人官僚の存在意義はなくならない。

むしろ、異民族皇帝が本拠を、

漢地に移すと、より一層、

漢人官僚の価値が高まる。

彼らがいないと国が運営できないからだ。

こうして、異民族皇帝は徐々に漢化していくこととなる。

 

八王の乱において、

漢地に異民族が進出してから、

約100年。

異民族は漢地を支配しながら、漢人官僚を重要視せざるを得ない時代が続いてきた。

 

異民族皇帝は、臣下でありながら、

漢人官僚を尊重せざるを得ないのである。

 

 

 

●東晋返書事件で崔逞を自死させる、二つの意義

 

この流れを変えたのが拓跋珪である。

 

拓跋珪は、

漢人官僚の高官、崔逞から嫌味を投げかけられ、

それに憤慨。一旦はこらえるも、もう一度似たような事件が起きる。

 

それは、東晋への返書事件である。

 

398年に後秦姚興が東晋の襄陽を攻撃。

東晋の郗恢が北魏に援軍を出してほしいという旨の使者を送る。

拓跋珪は、崔逞と张衮に東晋への回答を指示。

東晋の使者の文書の中で、北魏の鮮卑拓跋氏を虎扱いする部分があり、

礼を失したものであったためである。

しかし、崔逞と张衮は東晋への回答で、

東晋の皇帝を「貴主」と呼称した。

これに拓跋珪は激怒。こちらは貶されたままで、

それで相手の君主を尊ぶなど到底許されたものではないと。

崔逞はこの一件で自死を命じられることになった。

 

異民族皇帝が漢人官僚に死を命じる、

初めてのケースである。

 

 二つの意義がある。

 

①拓跋珪、漢人をマネジメントする。

 

一つは、

これまで漢人官僚に案外と配慮していた異民族皇帝は、

自身のメリットを考えて、こうしたことはできなかった。

だが、拓跋珪は本腰を入れて、漢人を支配しようとしたのである。

 

②拓跋珪、崔逞の嫌味を認識した。

 

もう一つは、

異民族皇帝の拓跋珪が、

崔逞の嫌味を「認識」したということである。

 

荒々しい軍人、という印象が強い拓跋珪。

しかしその政策は、非常に革新的で、時代を変えるほどのものである。

相当に聡明な君主と言える。

 

この崔逞の嫌味に対して、

聡明な拓跋珪が怒りに任せて、処刑したわけではない。

 

一件目のふくろうの件などは、

そもそも、

文化が違うのだから、心の底から怒りようがない。

 

我々日本人が、外国人から英語で侮辱されても、

頭でしか反応できないのと同じだ。

感情面でドンっと怒りが沸騰するのは、

やはり日本語で言われたときである。「バカ」と突然言われれば、

感情的にもなるだろう。逆に、外国人に「バカ」と言っても、

日本人が侮辱的な言葉を投げかけている、というように、

冷静に頭で判断することしかできない。

 

つまり、

拓跋珪は崔逞の嫌味を頭で「認識」した。

そして、その意味を理解した。

それを見過ごすことの意味も理解した。

しかし拓跋珪はこらえた。

 

しかし二件目は許せない。

自分たちの仕える君主は侮辱されてもそのまま、

漢人皇帝に対しては敬称を付ける。

 

それは、裏切り行為とみなしてもおかしくはない。

 

ひいては、

拓跋珪という皇帝の権威を損ない、

胡漢融合の妨げになる。

 

それを拓跋珪は頭で理解したのである。

 

すなわち、拓跋珪は、

漢人、漢地の統治の本質を理解し始めたのである。

 

異民族の皇帝が漢人の教養を理解し始めた瞬間であった。

 

今までは胡漢融合でどちらかというと異民族が取り込まれていった。

 

しかし、拓跋珪は、

胡漢をまず線引きして、異民族の良さは残したまま、

漢人のメリットを取り込もうとした。

 

だから、拓跋珪の立場は強い。

漢人の自分に対する反発心を感じた、

この崔逞のエピソードで、異民族皇帝である

拓跋珪こそが漢人たちの主人であることを示す。

 

これは、

歴史上はじめて、

異民族の皇帝が漢人を自身で統治しようとした瞬間であった。