歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鮮卑拓跋氏の国号は何故「魏」なのか①~禅譲論と漢王朝永続論の対立。~

 

鮮卑拓跋氏大人一族の生き残り、 

拓跋珪により、386年1月代が復活するが、

同年386年4月、すぐに国号を魏としている。

 

中華史上、魏という名前の国はたくさんあるので、

この鮮卑拓跋氏の拓跋珪が建国した国は、

北魏と呼ばれる。

 

しかしこの「魏」という国号の由来は何なのか。

 

●拓跋珪が国号を「魏」にした理由をでっちあげる後世。

 

そもそも、386年に道武帝拓跋珪が「魏」にした理由は

不明確である。

 

とりあえず、

魏にしたが、

398年に拓跋珪が皇帝を名乗る際に、

再び国号を検討したとされる。

 

そこで、崔宏(崔浩の父)が自身の出身清河郡が

魏であるため、魏を推薦したところ、

拓跋珪がこれを採用したとされる。

 

私はこの話はでっちあげだと考えている。

 

これはさすがにない。

異民族で未開の部族の出身、拓跋珪たちを貶めるための話である。

万物の所有者、皇帝が、

自分の所有物である、臣下の出身地に由来するなど、

おかしな話である。

 

これは後に名族となる清河崔氏が、

この北魏という国を主導した、結論から言ってしまうと、

北魏拓跋氏の漢化を主導したのだという

ロジックに持っていくための操作である。

 

拓跋珪が魏にした、

しっかりとした理由がある。

それを探る。

 

そもそも、中華の歴史において、

国号とはどうやって決めるものなのか。

 

●封地に由来する国号。

 

 

一般的に、

中華における国号の決め方は、

宋までは、国の開祖がもらった封地に由来するとされる。

 

漢の劉邦=劉邦は漢中をもらって漢王となった。

新の王莽=新都侯に封じられたことに由来する。

魏の曹操=鄴に本拠を置き、魏王となった。

晋の司馬炎=父司馬昭が晋王であり、これを世襲。

隋の楊堅=父楊忠が随国公として封爵。楊堅はこれを世襲。(随は後に隋へ)

唐の李淵=李淵の祖父李虎が死後、唐国公を追贈。父李昞、さらにその子李淵が世襲。

宋の趙匡胤=帰徳節度使として宋州に駐屯していたことに由来。

 

だが、このような封地に則って国号を決めるというロジックは、

大雑把すぎで強引なものである。

 

これらは、基本的に禅譲で天命を受け継ぎ、皇帝となるパターンである。

その際には、

封地に基づいて国号が決まるというものである。

 

しかし、

そもそも、

項羽の楚、

劉備の蜀漢などはどうなるのかとなる。

項羽、劉備は封地に基づいているわけではない。

 

 

なお、

先に申し上げておくと、

 

「元」「清」はそれぞれ天の意味、

「明」は、白蓮教徒たちの蜂起で建国された国であり、

白蓮教に出てくる「明王」に由来する。

 

●「漢王朝永続論」

 

 

国号の決め方として、

過去に滅びた王朝の国号を受け継ぐという発想がある。

 

劉備が分かりやすい。

彼は漢の末裔として、後漢献帝は曹丕に殺されたと見なして、

漢を名乗る。復国としての漢である。

 

これは、皇帝は漢の末裔しか成れないという考えから出ているものである。

漢王朝永続論と言っていいものである。

 

一方、曹操・曹丕は、禅譲論で、

王朝というものは実力主義で代替わりするものとした。

 

三国時代初期には、

この二つの、禅譲か、漢王朝永続かという論争があった。

 

漢王朝永続論という考えは劉備だけに限定されるものではない。

 

一つは、

匈奴の劉淵である。

匈奴が兄弟の契りを結んでいたという故事に則り、

劉淵は漢を名乗る。

劉備が創ったいわゆる蜀漢も受け継ぐという立場に立ち、

劉備も廟に祀る。

劉淵は、前漢・後漢・蜀漢を継ぐ、漢であるとする。

これは、

漢でなければ皇帝になり得ないという思想に乗っかったものであり、

晋に対する当てつけである。

 

晋は魏を受ける。

魏は禅譲で漢から天命を受ける。

晋も同じく魏から受けつぐ。

つまり晋は禅譲論の王朝である。

 

劉淵はこの晋に対抗するのだから、

逆の思想、漢王朝永続論に立つのである。

 

 

●禅譲論か、漢王朝永続論かで国号の決め方が変わる。

 

この漢王朝永続論というのは、

根強く、本来禅譲論の東晋でも、

かなりの影響力を持っていたことがわかる話がある。

 

東晋において、桓温が台頭すると、

東晋としては禅譲の脅威が増す。

 

そうなると、東晋としては禅譲というのはあり得ないとしたくなる。

 

そこで東晋は、

魏から天命を受け継いだ、つまり禅譲されたのではなく、

司馬昭が遠征軍を送って滅ぼした蜀漢の天命を受け継いだのだとする。

その書物が漢晋春秋である。

 

晋は漢を受け継いだ王朝である。

国号は違えど、これは漢なのだから永続するものであるとした。

 

これにより、桓温を魏の曹操になぞらえて、批判・牽制したのだ。

西晋の時は、禅譲論だったのに、

東晋の途中から、漢王朝永続論に鞍替えしたのである。

 

このように、五胡十六国時代においては、

禅譲は決して確定的なものではなく、

まだまだ王朝継承ロジックの一つに過ぎなかった。

 

国号の決め方は、

禅譲の場合には、

この禅譲を受ける人物の封地に由来するだけであって、

ほかのケースは封地には関係がない。

 

なお、

王朝が代替わりする、その手法は禅譲、というように、

確定したのは、北魏東西分裂後の、北周・北斉禅譲以後である。

 

つまり、拓跋珪の時代においては、

禅譲は前提ではないのである。

 

≪②に続く。≫