五胡十六国時代という時代は、
旧来の漢民族文明に、異民族がどのように入り込んでいくのかを問う時代である。
これは次の南北朝時代においても、
大きな命題であり、
結論は、隋の楊堅、唐の李世民である。
両者は異民族鮮卑の出身でありながら、
その出自を隠し、漢人名家の出自として、
中華の君主、「皇帝」を名乗り、君臨した。
これが結論であった。
ここに至るまで、
中華史上最も痛い成長痛を伴う時代が、この五胡十六国時代および南北朝時代である。
この二つの時代、
胡漢融合策が成功すればその国は興隆し、失敗すれば滅びる。
そういうものであった。
●拓跋猗盧、胡漢融合の失敗。
315年拓跋猗盧(たくばついろ)
が西晋愍帝により代王に封じられた。
ここが鮮卑拓跋氏の一つのピークである。
のちに、拓跋猗盧(たくばついろ)の後継者を巡って内乱。
●後継者争いの構図
異民族らしい後継者争いが原因である。
拓跋猗盧は末子の拓跋比延を寵愛、後継者にしようとした。
異民族は長男から遠方に領地を持つのが普通である。
最後まで残った末子が後を継ぐのは順当と言えば順当である。
しかし、素朴な遊牧生活からとうの昔に脱却していた
鮮卑拓跋氏、それも代という国家になっていたこの勢力に
この末子相続という習慣はそぐわない。
後継者候補にそれぞれ各部族が与党として紐づく。
独立性の高い部族それぞれの利害対立は、北方異民族の宿命である。
さらにそこに、胡漢の対立という問題が絡むことで複雑化する。
●胡漢の領域にまたがって支配権を持つことで交易利権を得た鮮卑拓跋氏
鮮卑拓跋氏は盛楽が本拠であるが、代を西晋から与えられた。
ここは、中原との交易の拠点になる。
簡単に言えば、盛楽から馬を持ってきて代の平城で売る。
馬は現代の感覚で言えば自動車と同等の価値だからそれだけで
数百万円の売上が上がる。
それを代にいる商人たちが仲介する。
当然当時は自由貿易などないのだから、価格も高騰する。
盛楽は馬を供給するも、代は馬の仲介で多額の利益を得る。
代の仲介業者は、中華の中原にネットワークを持つものだから、
漢人、もしくは漢人のネットワークを持つ鮮卑人である。
これだけでも、十分に相互対立の火種になるネタである。
それぞれの勢力が拓跋猗盧の後継者に紐づく。
しかしながら、
拓跋猗盧はこうした状況に気付かず、
自身の権限を振るって、拓跋比延に後を継がせようとしたことで、
内乱が勃発する。
拓跋六脩が拓跋猗盧に反旗を翻し、殺害する。
これがきっかけとなり、
代という名の鮮卑拓跋氏は内乱に陥る。
●異民族か漢化か、その答えは結局軍事力。
258年に正史に登場した鮮卑拓跋氏。
一旦は西晋の衛瓘の策略で勢力を弱めるも、
その後力を強めてきたが、ここで停滞期を迎える。
結論として、
この鮮卑拓跋氏の内乱は断続的に338年まで続くこととなる。
316年のこの拓跋猗盧の内乱。
折しも匈奴漢においても後継者争いがあった。
異民族匈奴の、漢化政策か、それとも異民族の風習のまま行くのか。
匈奴漢創立者劉淵は親西晋なので漢化支持だが、
三男で本国に置かれていた劉聡はそうは考えず、
匈奴漢は急速に異民族回帰する。
ちょうどこのような時代にあった
鮮卑拓跋氏の拓跋猗盧の後継者を巡る争いも、
漢化政策か、異民族保持かの路線対立であった。
拓跋猗盧はこの対立で命を落とし、
そして自身の血統も絶える。
拓跋猗盧の兄弟で、
末弟拓跋弗の系統と長兄拓跋猗㐌の系統がそれぞれ相争う。
拓跋猗㐌は元々代を統治していたので
この系統は代を本拠地、
拓跋弗の系統は盛楽を本拠地。
南北で対立。
これを終息させるのは拓跋弗の孫、拓跋什翼健である。
●参考図書:
シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))
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