307年鮮卑拓跋氏の大人を拓跋猗盧(たくばついろ)が継ぐ。
八王の乱が終わったのが306年末。その後すぐに拓跋猗盧が立つ。
●八王の乱終結と鮮卑拓跋氏の再結集という拓跋猗盧にとっての好条件。
八王の乱の勝者は、司馬越である。
鮮卑拓跋氏は、司馬越の次弟司馬騰の援軍要請に忠実であり、
司馬越が八王の乱最終勝者となったことで大きな恩恵を受けた。
鮮卑拓跋氏内部としては
拓跋猗盧が立つタイミングで、三分裂していたのが再結集。
八王の乱終結と、鮮卑拓跋氏の再結集という二つの出来事が、
拓跋猗盧を押し上げることになる。
●拓跋猗盧と劉琨の同盟
八王の乱は、鮮卑拓跋氏がついていた司馬騰の兄司馬越の勝利で終わった。
しかし、八王の乱は終焉したとはいえ、その余波は今後も続く。
司馬騰は307年に、司馬越勢力と激しく争った、
旧司馬穎勢力の残党、汲桑・石勒の軍に敗北し、
逃亡するも捕らえられ、殺害される。
足かけ16年に渡る八王の乱は、西晋内部を完全に分裂させていた。
司馬越は再度の西晋統一のために内乱鎮圧のために動くも、
結局それは叶うことはなかった。
ところで、
幷州刺史だった司馬騰の後を継いだのは、
劉琨である。
劉琨は、賈謐二十四友の一人で、
中山靖王劉勝の末裔である。
匈奴漢の劉淵が幷州を席巻する中、
劉琨は何とか晋陽まで辿り着く。
晋陽の南西には、劉淵の本拠地離石がある。
洛陽から見ると、劉琨は劉淵の後ろに回った形となる。
劉琨が晋陽に辿り着いたことで、西晋勢力の盛り返しが起きる。
劉淵についた漢人勢力の調略を進める。
そして、司馬騰以来の鮮卑拓跋部との旧交を
復活させる。
● 拓跋猗盧と鮮卑慕容部・慕容皝の同盟。
一方で、
拓跋猗盧の代になると、
遼東の鮮卑慕容部・慕容皝と修好する。
北方異民族内での大きな外交政策の転換である。
理由は二つある。
先代の拓跋禄官は、娘を鮮卑宇文部に嫁がせるなど、
慕容部が敵対する宇文部と友好が深かった。
しかし、元々が拓跋禄官とは対立勢力であった、
拓跋猗盧は外交政策を改め、鮮卑慕容部と友好関係を深める。
拓跋禄官の人脈である宇文部を嫌った。
また
拓跋猗盧は親西晋に舵を大きく切った。
そのため、同じく親西晋の鮮卑慕容部とつながろうとして、
宇文部との関係を切ったのである。
306年末まで続いた八王の乱。
それが鎮静化した時点での西晋にまだ力ありと
拓跋猗盧は判断したことになる。
西晋の運命は落ちていくばかりであったが
鮮卑拓跋氏はこの拓跋猗盧の選択により、勢力を強大化させることになる。
●310年拓跋猗盧と劉琨の共同作戦
劉琨の支配下、雁門にて、
匈奴鉄弗部劉虎が蜂起。
これに対して、劉琨は拓跋猗盧に救援要請。
拓跋猗盧はこれを受けて、拓跋鬱律に二万の騎兵で攻撃。
劉虎を撃破。
これで劉琨は拓跋猗盧を信頼。
両者は義兄弟の契りを結ぶ。
この鉄弗部は古の匈奴残存勢力で、
これ以後常に鮮卑拓跋氏と緊張関係が続く。
●310年拓跋猗盧、代公となる。
劉琨は西晋懐帝に上奏、
310年10月拓跋猗盧は大単于、代公に封じられる。
これで、拓跋猗盧は代の支配を西晋懐帝に公式に認められた。
これがきっかけで、幽州の王浚が西晋から事実上の離反となる。
なぜなら、代は幽州の一部だったためである。
匈奴漢の勢力拡大に対して、
西晋は内紛もあり、劣勢を強いられる。
匈奴漢による洛陽攻撃も始まり、
劉琨は拓跋猗盧に支援を求め、拓跋猗盧もそれに応える。
見返りに領土拡張を認められ、
最終的に拓跋猗盧の鮮卑拓跋部は、
代から盛楽までのエリアを西晋に正式に認められる。
盛楽を北都、代の平城を南都にして、
それぞれ中華式の都城を建設する。
漢人も政権参加させて本格的な国家運営を行う。
※張家口の東は今の八達嶺長城のある山地。その先に北京。
盛楽の西は黄河。ウランチャブ(乌兰察布)の南は山地。
越えたところに平城のある代。ウランチャブの北はゴビ。越えたらモンゴル高原。
盛楽、ウランチャブ、張家口の三点を押さえると、天嶮に守られることになる。
●315年に代王となる拓跋猗盧
もはや風前の灯火となっていた西晋は
315年2月拓跋猗盧を代王に封じる。
孤立無援で無力な存在になり下がった西晋には、
もう名誉以外に差し出すものがなかった。
鮮卑という異民族の王者、拓跋猗盧の存在を、
代王という、中華の諸侯として
公式に認めたのである。