拓跋禄官。
鮮卑拓跋氏の事実上の二代目である。
●拓跋力微の死後拓跋禄官が大人になるまで内乱。
拓跋禄官は、
鮮卑拓跋氏の祖、拓跋力微の子である。
拓跋禄官が294年鮮卑拓跋氏大人になるまで17年の時がある。
拓跋力微が西晋の衛瓘の謀略にはまり、
長子拓跋沙漠汗の誅殺、および拓跋力微自身の憤死(277年)により、
内乱が起きる。
その後、
鮮卑拓跋氏の大人(族長と思えばいい)の地位は変遷する。
最後は大人であった、拓跋沙漠汗の末子拓跋弗を、
拓跋禄官自身もしくは拓跋禄官に属する勢力が殺害した。
拓跋禄官が鮮卑拓跋氏の大人となるも、
その地位は安定していたわけではなかった。
その対策が下記の鮮卑拓跋氏三分割である。
●拓跋禄官は鮮卑拓跋氏を三分割して内乱を落ち着かせる。
拓跋力微の死後から拓跋禄官の登場までに
熾烈な部族間対立があった。
この対立に、294年勝ち切った拓跋禄官。
だからこそ、
295年、拓跋禄官は鮮卑拓跋氏を三分割するのである。
※地図は現代の地図。大同市は後の平城。
拓跋禄官自身は、東部拓跋部として、
上谷郡の北を本拠とする。東は宇文部と境を接する。
エリアとしては、河北省の東北部から内モンゴル自治区まで。
中部拓跋部として、
拓跋沙漠汗の長子で、拓跋禄官の甥、拓跋猗㐌(たくばついい)
が代の参合陂の北を本拠として統治。
そして、
西部拓跋部として、
盛楽(フフホト)を本拠として、
拓跋沙漠汗の次子、拓跋猗盧(たくばついろ)が
統治する。
拓跋力微の死後、鮮卑拓跋氏は各部族で抗争を開始。
これが血で血を洗うような争いとなる。
拓跋禄官が鮮卑拓跋部の大人となるも、
まとめ切れないから、三つに鮮卑拓跋部を分けて、
その一つを自身が確保する。
ほかに強い勢力だった、
拓跋禄官の兄拓跋沙漠汗の子二名に、
他のエリアを渡すことで折り合いをつけたというわけだ。
異民族は部族ごとの集合体である。
中華のような国家形態ではないし、
官僚制度が整っているわけではない。
各部族がそれぞれ自立し、
一族の長老がこれを取りまとめる。
しかし、この拓跋禄官のときには、
三分裂することを明確に定めたというわけである。
●鮮卑拓跋氏の長、拓跋弗の葬儀を弔問する八王の使者
そして、
296年、
拓跋禄官は甥で先代の拓跋弗の葬儀を盛大に行う。
この葬儀には、
のちの八王の乱の主役、
司馬穎、司馬顒、司馬騰(司馬越の弟)が、
弔問の使者を送っている。
この当時、
司馬穎は車騎将軍で皇太子の側近、
司馬顒は西晋最大の軍都で副都、鄴の管轄、
司馬騰は都督幷州諸軍事であった
既に匈奴の後継者としてのポジションを確立していた鮮卑拓跋氏。
その強大な軍事力は、西晋の宗族たちを動かした。
西晋の帝都洛陽では、
賈后と皇太子司馬遹の対立が先鋭化。
各陣営の思惑が渦巻く中で、
万が一の際に、鮮卑拓跋氏からの支援を受けようと、
誼を結んだのである。
●拓跋禄官は宇文氏と婚姻。
この後、拓跋禄官は、
自身が統治する東部拓跋部の東にある
宇文部の宇文遜昵延(うぶんそんにちえん)の
朝貢を受ける。
拓跋禄官はこれをとても喜び、
自身の長女を娶らせる。
宇文部としては、
遼東の鮮卑慕容部の勢力伸長により、
圧迫されていた。
その形勢を立て直すために、
東部拓跋部の拓跋禄官と手を結んだ。
拓跋禄官は鮮卑拓跋氏を三分割したとはいえ、
緩やかに連合していた。
東の宇文部と同盟することで、
更に東の鮮卑慕容部と、これで対立関係に入る。
拓跋禄官の三分割という融和策が、
功を奏して、鮮卑拓跋氏は再び強い勢力を持つようになっていた。
そうして、次のフェーズは八王の乱である。