●最高権力者が傀儡を目的にして、51歳の皇帝を擁立することはない。
桓温が晩年、
老年に入りかけている司馬昱を皇帝にするのはおかしい。
セオリーは幼帝にして禅譲を迫る。
もしくは専権を振るう。
それは王莽、梁冀、董卓など枚挙に暇がない。
桓温と司馬昱が徹底的に長年対立していたとしたら、
ここで全権の皇帝につけるか。
そんなことをする輩はいない。
中華王朝は皇帝の決裁がなければ動かないのである。
完全に傀儡にし切っていたか、
余程、仲が良いかのいずれかである。
一般的には、桓温が禅譲を狙ってとか、
枋頭の戦いで、
前燕慕容垂に敗れた桓温が権威の回復を図るために、
司馬奕を廃して、司馬昱を皇帝につけたとされる。
もし、司馬昱が史実通り、
桓温の専横を排除しようとしてきたのなら、
皇帝となったら、
桓温の言うことを聞かなければいいのである。
皇帝司馬昱は
桓温の威勢を削ぐことができてしまうのである。
当然、桓温の意図とは逆である。
桓温が司馬昱を皇帝にしたのは事実なので、
この周辺にある理由の何かがおかしいのである。
●司馬昱を皇帝に擁立した桓温の目的は北伐を遂行だ。
・司馬氏宗族のトップ、司馬晞の排除。
371年、
司馬昱が即位後、
司馬昱から見て兄で、
元帝司馬睿の子、
太宰の武陵王司馬晞一族を弾圧している。
軍事能力を桓温が嫌ったと言うが、
この人物を知っている者がどれほどいるだろうか。
司馬晞の軍事能力を恐れたと言う割には、
この人物は北伐など戦績が見られない。
当時桓温以上に東晋に軍事能力がある人間はおらず、
実績からして他の人間と隔絶している。
恐る必要などどこにもない。
これは誇張している。
北伐失敗後の弾圧は、
これは北伐推進派と反北伐派の争いと見えないだろうか。
桓温は成漢征伐以来常に遠征反対にあってきた。
その都度、桓温は反対意見を撥ね付け、
遠征し、そして成果を挙げてきた。
しかし、今回は慕容垂の前に敗れた。
それで桓温は反北伐派を弾圧する他なかったのではないか。
反北伐派としては、
宗族で軍事の才があるとされる司馬晞も反対していたと
したかったのではないか。
なお、司馬昱が宗族のトップだから、皇帝にしたという
話もあるが、司馬晞がいるので、それも成り立たない。
司馬晞と司馬昱は共に元帝司馬睿の庶子であり、
司馬晞が兄に当たる。宗族のトップ、西晋で言うと、
宗師は司馬晞なのである。
宗族のトップが北伐に反対していたというのなら、
桓温が弾圧する理由もあるのである。
・桓温への反発から反北伐派へ転向した、庾希
またこの司馬晞一族弾圧の際に、
協力をした庾希という人物がいる。
司馬晞は殺されなかったが、
この庾希は誅殺された。
庾希は庾冰の長子である。
桓温と、潁川庾氏は長らく友好関係を保ってきた。
庾冰は庾翼と共に北伐推進派であった。
彼らは北伐を推進するにあたり、
桓温を先方にした。
桓温が世に出たのは、
庾冰、庾翼の長兄、庾亮が、
妹庾氏と東晋明帝の娘、南康長公主を
桓温に娶らせたことに始まる。
桓温の北伐に先鞭をつけたのは、
この庾亮、庾冰、庾翼兄弟である。
桓温が政権を握る、および北伐を遂行するにあたり、
庾氏が支持をしてくれないのは痛手だったはずだ。
庾希が桓温には反した理由は二つある。
一つ目は、庾希は不遇であったことだ。
367年に前燕の慕容厲が東晋支配下の兗州を攻撃するが、
庾希はこの救援に向かうが、結局失陥した。
この敗戦の責任を取らされ、
桓温は庾希を免官していた。
二つ目は、
司馬奕が廃され、司馬昱が立ったことで、
庾希が再度登用されるイメージが持てないと判断した可能性がある
ということだ。
庾氏は東晋二代皇帝の外戚であり、
長らく大きな勢力を保ってきた。
司馬昱の先代皇帝の司馬奕の皇后も庾氏であった。
庾冰の娘で、庾希の妹である。
司馬奕が廃された時にはこの庾皇后は既に世になかったが、
司馬昱となると、庾希は再度官職に復帰する確実なツテが
なくなってしまうのである。
要するに、
庾希自身は軍事の才能がなかったのだろう。
庾希は軍事上の功績を挙げられず、
桓温に排除される。
そして司馬昱が桓温と共に北伐推進派であれば、
庾希が絶望するのもわかる。
明帝以来、明帝の子孫が皇位を継いできた。
皆庾氏の血筋を引く者である。
大した才能がないか、庾希はそれを
支えとしてここまでやってきた。
しかし、
皇帝となる司馬昱は
何ら庾氏とは関係がないのである。
これは庾希としては、自身の完全な没落を意味すると
映ってもおかしくはない。
これに脅威を覚えた庾希は桓温に反乱を起こすも、
鎮圧されてしまうのである。
なお、
庾希の父、庾冰と、
庾希の叔父、庾翼は、
344年康帝重篤の際、後継に司馬昱を推している。
理由は国難のため幼帝ではなく、成年の皇帝を
推挙したい、である。
この点からも、
この庾冰と庾翼、
そして桓温が、司馬昱を推したのは、
同じ理由、北伐遂行であると私は主張する。
●皇帝司馬昱の早すぎる死、落胆した桓温も後を追う。
しかし困ったのは、
皇帝即位一年にして、司馬昱が病に罹ったことだった。
司馬昱は320年生まれで、当時52歳。
桓温は司馬昱よりも8歳年上の60歳で、
司馬昱が先に病に罹るとは思わなかっただろう。
372年、司馬昱が重篤である。
さて桓温はどうするか。窮した。
桓温が北伐を至上命題、
いや個人の人生を賭けていたとするのなら、
司馬昱以外の協力者がいないとするのなら、
桓温自体が誰よりも権限を握る他ない。
司馬昱はその死にあたり、
劉備の遺詔にならおうとするも、
謝安らの反対により、
王導、諸葛亮のようにせよとする。
私を含め、中国史は三国志から入る人間が多い。
ここで諸葛亮の名前が出てくるとにわかに盛り上がるが、
それに騙されてはいけない。
ただ、司馬昱の遺詔が諸葛亮の名を出していることに合わせて、
切り返しているだけだ。
本意は、王導の如く輔弼せよ、である。
王導のようにと言えど、
大した実績はない。
後世の我々が知る王導の実績の大半は、
誇張と脚色に満ちている。
この司馬昱崩御、桓温死去から貴族が持ち直すので、
この辺りから王導伝説が作られたのだろう。
こうして司馬昱は崩御した。
簡文帝と諡号を贈られる。
なお、この諡号は、
西晋・東晋の祖先、司馬昭を意識したものである。
司馬昭は、廟号が太祖、諡号が文帝だ。
司馬昭は、急死した兄司馬師に代わり、
後を継いだ。兄弟相続なので、当然イレギュラーである。
司馬氏が権力基盤を盤石にする途上であったための
非常措置であった。
これに、司馬昱はならったというのが、
司馬昱崩御時の最高権力者、桓温の言い分である。
司馬昱の廟号は太宗である。
太祖と太宗、司馬昱を司馬昭になぞらえているのである。
桓温は司馬昱の死後、
禅譲か周公旦のように摂政をすることを要求する。
桓温は373年初頭、
事実上の摂政体制へ持っていくが、
ここで桓温も病に罹る。
373年8月に死去。
桓温の北伐への想いは
ここに尽きた。