王莽より前は相克。
王莽以後は相生。
明清で相克、その後相生。
王莽が相生説を作るが、その後は長らく
相生説が定着する。
※ウィキペディア 五行説から引用。
●後漢光武帝は、王莽の陰陽五行説の改変を受け入れる。
さて、
王莽は前漢からの禅譲を成功させた。
高祖劉邦の霊から禅譲の意志をもらったらしい。
しかし、王莽はその後の混乱で死に、
光武帝劉秀が漢を復興させる。
※上記は光武帝の流れを知るにはとても良い。
光武帝劉秀という人は、
前漢を滅ぼしたのは確かに王莽なのに、
王莽が作った制度の大部分を受け継いだ。
皇帝の権威づけに役に立つと考えたか、
光武帝自身が王莽政権の思想自体に共鳴していたか、
と思われるが、私は両方だと考えている。
人材採用制度も、
儒教的考えから孝廉を重視するようになるところからしても、
光武帝は王莽のやり方に共感している。
加えて、自身の権威付けの部分で
メリットがあることから、
王莽の制度を採用した。
その中の一つが陰陽五行説の解釈である。
王莽が前漢は火徳だとしたがそれをそのまま受け継いだ。
この陰陽五行説の考え方は当時相当に広まっていた。
それは、赤眉の乱でわかる。
この乱を起こした人たちは、眉を赤く塗った。
それは、
漢の復興を目指す象徴だったからだ。
火徳の象徴色・赤色を眉に塗ったわけである。
こうして、後漢は火徳となった。
火徳は赤色である。
一般的に、漢は赤色のイメージが強いが、
このような経緯で
ようやく赤色となるのである。
●後漢より後、元までは相生説。
後漢からは相生である。
であるが、後漢がみずから相性ですよ、というのはおかしい。
何故なら皇帝=万歳爺であり、永遠に続くことが前提だからである。
ここは光武帝をはじめ後漢の皇帝がこれを認めたということではない。
漢までは相克だった。
それが後漢初で固まっただけである。
積極的に相生説であるとするのはおかしい。
だが、
この五行説の考えは一般に流布されていく。
相克説では廃れ、相生説の方が定着した。
それは黄巾の乱でわかる。
後漢末、相生の概念で、張角は、
「蒼天すでに死す、黄天当立」といった。
これは、相生である。
相生だと、
土金水木火の順番である。
黄色が立つ、とあるが、
これは漢が赤色、火徳だからである。
赤が立たなくなって、黄色が立つということである。
既にここで相克説ではなく相生説が一般化していることになる。
※張角が相克説だったか、相生説だったかは諸説ある。
が私は、相生説に則っていると考えた。
赤眉が赤だからである。
張角のいう蒼天は、五行説とは関係がなく、ただ天を示した。
天=皇帝である。
青色とすると、木徳になるが、漢王朝とは関係がない。
●曹丕が確立した相生=禅譲スタイル。
黄巾の乱をきっかけに後漢は崩壊。
その後、曹操、曹丕は、禅譲と言う形で、後漢を継いだ。
それは、王莽が作った禅譲の形式をベンチマークした。
だから五行も相生説になる。
火徳の漢が衰えて、土徳の魏が立ったというわけである。
魏の最初の元号は、黄初である。ここに黄色がある。
曹操、曹丕の禅譲形式は、宋まで継続する。
儀式も全て曹操、曹丕のやり方を踏襲する。
だからそこまでは相生である。
(相生説だと、土金水木火の順番)
漢=火徳
↓
曹魏=土徳
↓
晋=金徳
↓
北魏=水徳
↓
北周=木徳
※南朝は「東晋=金」→「宋=水」→「斉・梁(同族)=木」→「陳=火」
↓
隋=火徳
↓
唐=土徳
↓
後梁=金徳
↓
後漢=水徳
↓
後周=木徳
↓
宋=火徳
↓
金=土徳
↓
元=金徳(これは元の定義ではなく、中華の巷間で言われていたもの。)
である。
どの王朝を認めて、どの王朝を認めない、
そして自身がどの王朝を継ぐかはそれぞれ考え方があるが
概ね上記のようになる。
元は金からの相生ということにしている。
漢民族の王朝である宋を受けたとは考えていない。
元までは相生。
●明は元を打ち倒す。相生ではない。
しかし、元に対して明は禅譲ではなく、
打倒したのである。これを相生はおかしい。
また、
明に対して清は打倒したのである。
これらは相克になる。
これは禅譲ではない。
前が衰えて次が生まれる。
それが相生、禅譲。それではないのである。
これが次に相克に戻る時期、明の成立である。
明が元をモンゴル高原に追っ払って
中華王朝となった時である。
理由を説明する。
一つは、
上記でも若干説明したが、
明は元を中華から追い払ったことだ。
明は元から禅譲を受けたわけではないので、
相生はおかしい。相克である。
二つめは、
明は漢民族の王朝である。
漢民族は名前の通り、漢王朝がルーツである。
明は漢民族の王朝であるので、
漢を継承しているということにしたい。
漢は火徳である。赤色である。
元はちょうど、金徳であり、
相克にすると、次は火徳となる。
これは明にとってとても都合が良い。
紅巾の乱が、赤をモチーフにしたのはこうした背景があった。
ということで相克の考えが復活する。
なお、明は元を追っ払っただけで滅亡させていないことを付記したい。
詳細は下記著書の後半部に記載がある。
●清は相克、相生いずれでも水徳
次は清である。清は水徳である。色は黒である。
清はモンゴルの元を受け継いで、
王朝を建てる。実は明を継いではいない。
元を継ぐことが清の正統性の源泉である。
この事実だと、元から清は相生である。
これは相生であるが、金徳の次は水徳でちょうどよい。
しかし、五行説は中華の文化が生んだもので、
元のモンゴル、清の満州族には関わりのないものであった。
なのであまり意識していないというのが実態である。
気にしているのは中華に住む、漢民族である。
清は、
明を打ち倒したという視点で見ると、相克。
明の火徳の後は、水徳。
いずれにせよ清は水徳であり、
うまくできている。
陰陽五行説は中国の思想なので、
清にこれを無理やり当てはめようとすると、
明を継ぐことになるので、
相克で考える。
火徳から水徳に相克として遷ったと考える。
元=金徳
↓
明=火徳 ※漢と同じ。宋とも同じである。
↓
清=水徳 清という王朝名にサンズイが入っていることからもわかる。
但し、元と同じく清は陰陽五行説にこだわっていたわけではない。
ということになる。
その後は、相生説に戻る。
清=水徳
↓
中華民国=木徳
木徳の色は青。中華民国の国旗、青天白日旗の青はこれに由来する。
↓
中華人民共和国=火徳
漢、宋、明と同じく、火徳である。色は赤なので、
国旗が赤地である。
決して共産主義由来なだけで
赤にしたのではないことがわかる。