※外戚とは本来皇帝や王の母及び正妻の一族を指すが、
ここでは広義として使う。
司馬炎の正妻は、弘農楊氏。
司馬昭の正妻は、東海王氏。(王粛の娘。王粛の父は王朗。)
司馬師の正妻は、泰山羊氏。
非常に力の強い外戚をそれぞれ持っている。
これは、
中国史上としては初めてのパターンである。
まだ創業ならない中、外戚の後援を受けながら、
禅譲への道を進む。
逆に言うと、
司馬炎、司馬昭、司馬師らにそこまでの絶対権力がないことを示す。
本来は、
司馬懿・司馬師が249年に起こした正始政変において、
事実上の政権交代、革命は起きていたが、
実際の禅譲は時間がかかった。
また司馬懿、司馬師が政権を握った後の期間があまりにも短かった。
事実上の創業者である彼ら二人は、やはり権力も振えるので、
あらゆることを進めやすい部分があるが、時間が不足していた。
禅譲への進捗が中途半端なまま、
司馬昭に権力が引き継がれる。
司馬昭は、禅譲手前まで進捗した。
しかし、ここでもまた志半ばで司馬昭が倒れることで、
またもや中途半端なまま司馬炎に権力が引き継がれる。
司馬炎のもとで、ようやく禅譲は成るが、
司馬炎にとって、有利な状況ではない。
司馬炎自身に、実績はなく、司馬懿らを継ぐというぐらいしか、
権力を受け継ぐ大義名分がない。
政権維持のために、
名族の支援が確実に必要な状況であった。
司馬炎にとって不利な状況であった。
創業皇帝としては、非常に弱い立場にあったと言える。
下記に司馬氏と他王朝の創業者のそれぞれの正妻から、
司馬炎のいる状況を探ってみる。
●司馬師の正妻は、
夏侯氏に始まり、呉氏、最後が泰山羊氏の娘で羊祜の同母姉である。
司馬昭の正妻王氏の父王粛の正妻は、泰山羊氏。
泰山羊氏とは二重に姻戚関係がつながっている。
相当に有力な名族であったと言われている。
後に司馬炎の後継者恵帝の皇后(正妻)も羊氏である。
●父司馬昭の正妻は東海王氏(王元姫)。
王粛の娘である。
王粛は司徒まで昇った王朗の子である。
儒家の立場に立ち、魏建国時の肉刑復活論議の際、
肉刑復活支持派の陳羣・鍾繇らに対して、
反対派の代表格がこの王朗だ。
王朗は、蜀漢の存在を意識し、
寛恕の政治を魏文帝曹丕に求めた。
曹丕の本音は、自身の権限強化につながるので、
(足削ぎ、鼻削ぎなどの肉刑は、死刑未満の処罰を
行うことで、皇帝の考えを遍く広めることにつながる。)
肉刑復活賛成だったが、王朗の反対に折れたという
経緯がある。
肉刑復活支持はイコール法家政治とも言える。
一方、肉刑復活反対は、儒家政治ということができる。
王朗一族は、
そういった経緯も含めて、
代表的な名族の一つであり、
かつ儒家政治を代表するものである。
司馬昭は自身の権力を維持するため、
名族に配慮する必要があった。
そのための政略結婚である。
●司馬昭と正妻王元姫の子である、
司馬炎は、正妻に楊氏を迎えている。
この楊氏は、弘農楊氏という名族である。
弘農楊氏の先祖の一人は、後漢の太尉楊震である。
賄賂を断ったエピソード、「四知」で知られ、
最後は宦官の讒言で免官され、自決に至る。
後漢期における清流派官僚の祖とも言える人物で、
やはり代表的な名族の一つである。
楊震以降、四代に渡って三公を輩出し、
「四世三公」とも言われた。
(袁紹・袁術の出身汝南袁氏も四世三公で同格である。)
子孫には、三国志における「鶏肋」の楊修がいる。
なお、隋の文帝楊堅もこの弘農楊氏の末裔と称しているが、
詐称である。
結婚相手も、
名族に配慮しなくてはならないのが、
西晋の皇帝である。
創業皇帝としては甚だ窮屈なことであった。
逆に言うと、創業皇帝という実態はなく、3代目ぐらいの皇帝だったとみたほうが、
実情に沿っているかもしれない。
他王朝の創業者の外戚事情を探ってみる。
●高祖劉邦の正妻は呂氏、
地元の有力者であったが、劉邦は請われて正妻にしている。
地元レベルで天下争奪に関与したわけではない。
●王莽の正妻は、
王氏。魏郡王氏の出身である王莽とは異なり、
済南出身の前漢丞相王訢(おうきん)の孫娘である。
魏郡王氏の中で、冷遇されていた王莽が世に出るのを助けている。
王莽が皇帝になった後外戚として権力を振るった。
魏郡王氏の中で忘れ去られた存在王莽を押し上げたのが、
この外戚で、王莽は強い支援を受けている。
忘れ去られたとは言え、王莽自身が初めから貴顕の地位にいたことが大きい。
●後漢光武帝は、
新野の有力者陰氏、こちらも陰氏の希望での正妻である。
かつ、光武帝は自分で相手を選んでいる。
●曹操の正妻では、卞氏が有名であるが、
歌妓である。好きで選んでいる。
曹操は外戚の支援は全くない。
●劉備の正妻は変転する。
流寓の地における有力者から正妻を迎える。
最後の呉皇后は、蜀の有力者である。
劉備から請うたというより、請われている。
●孫権の正妻に至っては誰も記憶していないぐらいである。
相当に自由に選べた。
寵愛している女性を、皇后にするかどうかが
自由に判断ができた。
外戚の支援がなくとも、自身の権力基盤がしっかりしていた証拠である。
こうしてみていくと、
司馬炎の外戚の存在が際立つ。
外戚は、名門であり過ぎるということは、
その力を強く欲していることに他ならない。
このケースに最も近いのは、王莽である。