歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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洛陽が中国の原点

 

中国大陸を中心とした世界。

 

北はモンゴル、バイカル湖まで、

東は満州、朝鮮半島まで、

西は、敦煌など西域まで、

南は、昆明やベトナムまで、

を範囲としたエリア。

それより先は、海、山、砂漠などに通行を阻害される。

 

北は馬などの家畜が豊富。

東は、高麗人参や魚介類など。

西は、とはいえ砂漠を通ってもたらされた西域の文物。

ペルシア、イスラム、ヨーロッパ。

南は、翡翠や魚介類など。

 

それぞれ魅力的な品物がある。

 

東西南北の部族は、

それぞれ相手の品物に興味を持つ。

 

馬に乗ったモンゴル部族の人たちは、

南方の翡翠が綺麗だと感じる。

 

南方の人たちは、馬があったらどんなに移動に便利だろうと

思う。

 

お互いの利害が一致している。

それぞれの品物を交換しよう。

 

東西南北、こうしたお互いのニーズがマッチしていた。

 

このニーズを満たす場所はどこか。

 

それが洛陽である。

 

中国大陸には厄介な大河が二つある。

黄河と長江。

今回のケースでは、

長江では、この東西南北の中心としては少し南過ぎる。

 

本当は黄河がいい。

しかし、

黄河は厄介で、

渡河できる場所が限られている。

 

流れが急過ぎるところ。

断崖絶壁ばかりが続くところ。

流れが一様でなく、洪水ばかりが起きるところ。

 

世界的に見てもこれほど厄介な河はなかなかない。

 

しかし、黄河の中で、

あるエリアだけ、安定して渡河できる場所があった。

 

それが洛陽盆地である。

 

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(「世界史年表・地図(2016年版) 編集:亀井 高孝, 三上 次男, 林 健太郎 吉川弘文館」から引用)

 

洛陽盆地の黄河は、

流れが穏やかになる。

断崖絶壁ではなく、平野を流れている。

流れは一様で、程よい山にも囲まれているので、

ここだけは洪水のリスクが少ない。

 

ここ洛陽盆地で、

ダイナミックなこの中国大陸の東西南北が

貿易を行うことになった。

 

貿易の国、中華がここに始まる。

 

まずはじめにこの貿易を支配したのは、

 

南方から来たタイ人であった。

農耕民族である。これが夏王朝である。

中華、中夏の由来である。

 

その後、北からやってきた商という狩猟民族が取って代わった。

太行山脈の東側にある森林が生息地である。

馬を使いこなし、狩りに強い。

猪、兎、鳥など森林の狩りで取れるものに

強い。

馬を扱えるので、

戦いも強かった。

 

貿易の主宰者、

これに付随する関税など税収の掌握。

洛陽盆地を掌中にすることは、

貿易というビジネスをオーナーとして手に入れることである。

 

夏王朝に対して、自分たち商王朝が行ったような、

軍事行動を起こされないように、

権威づけだったり(神聖政治)、

軍事体制の確立を行う。

 

しかしながら商王朝は、森林から離れた土地では狩猟民族としての

強みを維持することができない。

 

平地の民と化した商王朝。

貿易の上前を撥ねるだけの王朝は自ずから堕落する。

 

今度は西方の遊牧民が攻めてくる。それがのちの周王朝である。

彼らは牧畜に強い。

馬、羊など。

遊牧民は、馬を生産できるのが大変大きい。

 

騎兵の割合が高い軍勢であれば、

騎兵がほぼいなかったであろう、商王朝末期の軍隊には、

圧倒的に強い。

少数でも一致団結していれば強い。

 

機動力を活かして、

正面攻撃および遊撃として、側面・後方を突けば、

それほど難しい戦いではない。

 

それが牧野の戦いであったのではないか。

平野で戦った時点で、商王朝の負けである。

 

勝った周王朝が賢かったのは、

本拠を洛陽盆地に移さなかったことである。

 

商王朝が平野の民と化したことで、軍事力を失った。

 

周王朝は、その轍を踏まないため、

自身の本拠に近い鎬京(後の長安周辺)に都を置いた。

洛陽は、もうひとつの都として、

貿易を支配した。

多分に軍事力維持のためというのが元々も目的であっただろう。

周王朝は自身の本拠に近い方が馬を調達できる。

馬一頭は現代の車一台と思えば、当時のイメージとそこまでずれないであろう。

そうして馬を生産できる場所は限られるという限定付きである。

軍事力を維持するために馬生産地から本拠を離さないというのは、

周王朝の成功要因を考えると当然ともいえる。

 

しかしながら、

紀元前771年、商王朝と同じく平野の民と化し、

軍事力を失った周王朝は西方の遊牧民犬戎に滅ぼされた。

 

但し、

この二首都制というべきか、

これがあったからこそ、周王朝は長く続いた。

 

それはエリアの問題である。

鎬京のある関中平野から洛陽盆地までは、隘路である。

後に函谷関や潼関という関門を設けられるが、

設けることができる、すなわち狭隘な地があるということで、

騎兵の機動力を活かしにくい。

 

それで犬戎は洛陽盆地まですぐに進出することができなかった。

 

洛陽盆地で軍事力を失った周王朝は、

権威のみとして生き残る。

 

既に文明化や周王朝の各地への植民が進んでいた当時。

 

洛陽盆地以外でも貿易が始まっていた。

 

各地がそれぞれ自立できる力を持ち始めたのである。

 

各地の勢力は、諸侯を中心に、

春秋戦国時代という乱世に突入する。

 

洛陽盆地以外も掌握しなければ、

中国大陸全体の貿易利権を手に入れることができなくなった。

 

洛陽は貿易利権の象徴に過ぎなくなった。

 

しかしながら、これが中華王朝の本質である。

 

中華を統一し、四方との交易で、

莫大な利益を得る。

それにより空前の繁栄を誇るのである。