- ●357年時点
- ●前燕と東晋の黄河ー淮水間攻防戦
- ●前燕、破竹の勢いで南下。
- ●前燕皇帝慕容儁が早死。慕容恪摂政。
- ●自身を周公旦になぞらえた慕容恪、364年洛陽攻略するも367年に死去。
- ●慕容恪の死を機に桓温が第三次北伐。
- ●東晋の反撃369年桓温第三次北伐、前燕慕容垂に大敗。
- ●前燕慕容垂が前秦に亡命、370年前秦は前燕を攻め滅ぼす。
357年からの前燕、前秦、東晋の三国時代の推移。
この時代は、慕容恪、桓温、苻堅がそれぞれの個性を活かして、
それぞれが躍動する、面白い時代である。
●357年時点
・前燕
前燕は357年鄴へ遷都。
異民族であることを除けば、中華王朝の条件は出揃った。
黄河以北は掌握しているので、今後は、
黄河以南、及び洛陽方面の攻略に着手する。
・前秦
前秦は苻堅が天王となる。
前皇帝苻生は弑逆される。
ここで事実上王朝が変わるほどの変化が起きたことになる。
家系が変わるので、
前秦は祖が変わることになる。
ヨーロッパでは王朝が変わるし、
中国でも例えば匈奴漢及び前趙は、
家系が変わったので、王朝名も変わった。
(例:フランスのカペー朝、ヴァロア朝、ブルボン朝)
苻堅が前秦天王になったとはいえ、
これは本来は王朝の交代とも言える。
当面、内政に注力。内部を固める。
この早い段階で、王猛という逸材を苻堅は手に入れる。
この漢人の逸材により、前秦は急速に胡漢融合が
進むことになる。
・東晋
東晋は、356年に桓温が第二次北伐で洛陽を奪取。
313年に洛陽を劉曜に奪われてから43年ぶりに洛陽を回復。
東晋はこれで体面を保てるようになる。
しかしながら、
第一次北伐で長安は落とせなかった。●長安落とせず。
第二次北伐は洛陽の攻略が精一杯だった。●洛陽のみで帰る
これは完全な戦力不足が原因である。
そもそも桓温は兵を動員できないし、
国家として動員できる兵も少ない。
桓温は、本来の目標、
中華(中原といってもいい)を支配する、
前燕の攻略のために、
土断法の実行をすべく、東晋内の内部調整に入る。
民衆の支持を背景に、桓温は貴族名族との政治抗争に入る。
東晋から見た対外情勢は、
淮水以北、黄河以南を東晋は357年時点では
勢力圏に抑えているものの、不安定である。
●前燕と東晋の黄河ー淮水間攻防戦
ここには、急進的な軍事国家前燕が黄河以南へ侵入。
次々と奪われながらの、桓温の政治調整であった。
この淮水―黄河間の領土争いは、
前燕が優勢であった。
東晋についた勢力も所詮は日和見。
前燕が騎兵を中心に遊撃戦を行うと、
早々に陥落する。
東晋は、淮水以北の領域を次々と失う。
華北へ出る重要な水路である、
彭城、下邳、淮陰、刊溝だけは守り切ったが、
これ以外は、結局前燕に奪われてしまうのである。
●前燕、破竹の勢いで南下。
358年、泰山太守の諸葛攸(しょかつゆう)が前燕の東郡を攻撃。
逆に負け込み、大幅に領土を奪われる。
359年には、
戦国時代の梁(魏)・宋の領域を管轄していた謝万は
友軍の郗曇(ちどん)が撤退したことにより、
慕容恪に脅威を覚え撤退。
許昌、潁川、譙、沛を放棄。
慕容恪はこれらを取り、
河南にも大幅に領土を持つことになる。
●前燕皇帝慕容儁が早死。慕容恪摂政。
このチャンスに前燕皇帝慕容儁は、
東晋に総攻撃を掛けるべく、鄴に大量の兵を集める。
しかしながらこのため疫病が流行、これに皇帝慕容儁も罹ってしまうのである。
359年12月慕容儁危篤、360年1月崩御。
このパターンは、実際には既に年末に死去していた可能性も高い。
魏の曹叡も年末に崩御していたが、発表は翌年だった。
慕容儁は庶弟慕容恪に皇位を継がせようとするも、
慕容恪が拒否。
太宰・録尚書事・行周公事として、
後継皇帝慕容暐を輔弼することとなる。
太宰の官名は西周に由来。
慕容恪は、周公旦にならい、幼年の成王(この場合は慕容暐360年時点で10歳)を輔弼したごとく、
政務を司ることを決めた、という思想の表れである。
「行周公事」とは、
周公のことを代行するという意味である。
●自身を周公旦になぞらえた慕容恪、364年洛陽攻略するも367年に死去。
このようにして、事実上の摂政となった慕容恪。
361年には野王の呂護を攻略。
363年8月からは洛陽攻略に取り掛かる。
調略を進め、364年3月に洛陽を総攻撃。
洛陽を落とす。
366年には慕容恪は慕容評とともに慕容暐に政権を返還することを
上奏するも許されなかった。
367年6月慕容恪は死去する。
●慕容恪の死を機に桓温が第三次北伐。
慕容恪の死で、
前燕が混乱する。
慕容恪を継いで、
皇帝の輔弼に当たる慕容評。
だが慕容評には
前燕をまとめ上げる力がなかった。
皇帝慕容暐はまだ17歳。
前燕はにわかに動揺する。
そこを桓温が狙う。
土断を行うも、
二度の東晋皇帝の崩御。
若死にである。
および、東晋国内の貴族名族勢力の、
桓温への反発で、
長らく足止めを食っていたが、
ようやくここで動くことができる。
●東晋の反撃369年桓温第三次北伐、前燕慕容垂に大敗。
桓温は、
第三次北伐で、前燕を攻撃。
得意の電撃戦で、
慕容評および前燕を狼狽させるのに成功。
洛陽盆地の割譲という破格の条件で
前秦に援軍を求める。
しかし、この中で
冷静、というよりも慕容評への反発心から、
桓温の裏を取った男がいた。
慕容評の甥、慕容恪の弟、
慕容垂である。
桓温の裏を取り、退路を絶って、
桓温を敗北させる。
桓温は黄河北岸に出たが、
黄河の南岸を抑えて仕舞えば、
桓温は退路を断たれてしまうのである。
急ぎ撤退したところを、慕容垂は攻撃。
桓温は敗退する。
慕容垂の戦略が上手かったのであるが、
本来は冷静に対応すれば
対処できるところを、
桓温のこの思いっきりの良さが数々の戦勝を生んできた。
だが、桓温は初めて負けたのである。
●前燕慕容垂が前秦に亡命、370年前秦は前燕を攻め滅ぼす。
前燕はこの後、
慕容垂は慕容評と相入れず、
慕容垂は前秦へ亡命。
前秦の王猛は、
洛陽接収の名目で、
出兵。
そのまま前燕を滅ぼす。
370年のことである。
前秦、華北の覇者と成る。
●参考図書: