344年の庾冰の皇帝後継推挙。司馬昱。
371年の桓温の皇帝推戴。司馬昱。
これらをつなげる要素、
それは、
桓温は庾氏勢力の後継者であること、
である。
●作られたヒーロー、桓温
庾亮が桓温を東晋皇帝明帝の婿にした。
明帝の娘は、庾文君の子でもある。
庾文君は庾亮の妹である。
庾亮の目的は、
輿論の支持を受けていた桓温を取り込むこと。
桓温はその期待に応えた。
庾亮という最高権力者が、
桓温というヒーローを作り上げた。
●桓温を何充が重責に充てる。
340年庾亮、
344年庾冰、
345年庾翼と
優秀な庾氏三兄弟が世を去る。
庾翼は334年の陶侃の死後、
庾氏が握っていた西府軍の軍権を
息子の庾爰之に引き継ぐよう遺言する。
ここで出てくるのが、
何充である。何充は庾翼の遺言に逆らい、
桓温を西府軍の後継にした。
庾冰亡き後の中書監がこの何充である。
◆◆◆
何充は庾氏と姻戚関係にある。
何充は庾氏三兄弟の妹、庾文君とはまた別の、
妹を正妻に迎えている。
庾氏三兄弟とは義理の兄弟である。
さらに東晋明帝の義弟ということになる。
このような姻戚関係および
高位にあるので、
庾翼亡き後の
庾氏の後見人の立場である。
さらに何充は、
瑯琊王氏とも姻戚関係があり、
実は義理の叔父が王導である。
母の姉が王導の正妻である。
王導の甥である何充は元々、
王敦の属官であった。
瑯琊王氏の統領は王敦なので
自然の流れである。
しかし、王敦が第二次王敦の乱のとき、
病に伏せると、王導と共に何充は王敦を見限ったようだ。
王敦の乱で、王敦らを売った王導が高位を得る中、
何充も栄達する。
このように言うと王導は何とも悪人にしか見えないが、
王敦はどうやら不死の病であったようだし、
血の繋がった子もおらず、
王導が皇帝側に寝返るのもやむを得ないと私は考える。
王敦を支持し続けるということは、
つまり王導が王敦の後継者として、
東晋皇帝に刃向かうということを意味する。
王導にそこまでの気概はなかった。
王導は339年に世を去る。
この後瑯琊王氏で世に出てくる人物が見当たらない。
王という姓の者は、太原王氏ばかりである。
しかし、瑯琊王氏は王敦、王導以来の
権益を持っているので、隠然たる力を持っている。
その瑯琊王氏の意見をを中央政府で
代弁するのがこの何充であったと思われる。
結論、
何充は、瑯琊王氏王導の甥であり、
潁川庾氏の婿である。
このバランスを保たないと、
何充にとってはメリットがないどころか、
実は危険である。
当然、何充は両家とつながりがあるが、
氏は何氏であるからだ。
瑯琊王氏と潁川王氏に配慮をする必要がある。
その一つ目が、
康帝の後継者選定である。
潁川庾氏は北伐の遂行のために、
司馬昱を推したが、
何充は反対し、
2歳の穆帝を後継にした。
何充は義理の兄である、
潁川庾氏の庾冰と庾翼の意向に反対するからには、
相当なメリットがなければ難しい。
ここには瑯琊王氏の意向があると考えるのが自然である。
何充はうまく、
瑯琊王氏と潁川庾氏との関係性を
バランス良く保とうとしているのである。
二つ目は、
庾翼の死である。
庾翼は西府軍の後継者に
実子庾爰之を推したが、
何充はこれにも従わなかった。
桓温を推して、西府軍を掌握させたのである。
何充は、西府軍の後継が庾爰之では心許ないと
考えたというのが私の結論である。
庾翼は40歳で死去。
庾爰之は生没年不詳であるが、
父庾翼の年齢からして、
20歳前後以下と見るのが妥当だろう。
となれば、まだ才能があるかどうかもわからない。
明らかに若年である。
そのような庾爰之に後を継がせるよりは、
33歳で、とはいえ若いが、
輿論の評判も良く、庾冰・庾翼の評価も非常に高かった、
桓温を引き上げる方が良いと、
何充は考えた。
●司馬昱は庾氏勢力が支持をした。
司馬昱は、
東晋初代皇帝の末子である。
清談に関しても理解があり、
いわば当時の知識人、教養人として
名声を得ていた。
康帝が崩御した際に、
庾冰・庾翼に後継皇帝に推されたこともある。
何充の反対によりそれは叶わなかったが、
その事実は残る。
幼帝穆帝が立っても、
皇帝以外の宗族で司馬昱のポジションが相対的に
頭ひとつ出た事実は
残ったのである。
それを支持したのは、
庾氏勢力であった。
庾冰、庾翼が相次いで亡くなり、
またその勢力を継いだ何充も346年に世を去る。
外戚の褚裒(チョホウ。尚、唐の褚遂良の先祖である。)は、
謙譲し政権を取らなかったことから、
司馬昱が政権首班となる。
司馬昱は320年の生まれ、
26歳での政権を取ることになった。
こうした経緯なので、
司馬昱を積極的に支えるのは、
桓温である。
桓温は、
庾氏の姻族であり、
荊州の軍権を掌握する高位にあった。
ここで、
司馬昱と桓温が繋がるのである。
この後すぐに桓温は、
成漢討伐を出兵をする。
桓温は、進軍の途上に出兵許可を得ている。
事実上の事後承認だが、
これが許されるのは、
司馬昱を支えているからでもある。
司馬昱としては、
桓温の庾氏勢力さえ、
掌握していれば、
自身の権力基盤は安泰である。
こうして、
司馬昱が簡文帝として即位し、
372年に崩御するまでの26年間、
司馬昱ー桓温時代が続くのである。