全権掌握する司馬越
司馬越は306年8月に政権を掌握。録尚書事。
録尚書事の録は、元々は領である。
領は、領地、領空、領海、領主の領である。
尚書のことを支配する意味である。
306年10月に
司馬穎が処刑。
306年11月に
恵帝が死去。
306年12月に
司馬顒が処刑。
と立て続けに、政権中枢に関わる事件が起きる。
司馬越の甘さと懐帝の陰謀
年が明けて、307年。
3月に司馬越は自分自身を含めて、
司馬越兄弟を主要都市に出鎮。
目的は、
司馬穎・司馬顒派の残党と、
異民族勢力の鎮圧である。
これを二つの角度から考える。
司馬越が甘い。
政権掌握して一年足らずで洛陽を空けるなど、
司馬越の考えがそもそも甘い。
司馬越は2年越しの大乱を勝ち切った。
司馬穎・司馬顒勢力と、国を二分する争いを2年やっていたのだ。
当然国内は分裂する。
治安も悪化する。
司馬越はそこで洛陽の外に目が行ったのだ。
それで各地に出鎮した。
自分は八王の乱の勝者だという奢りもあったのかもしれない。
西晋の呆気ない崩壊は、
このようなミスが連続することで、
最終章を迎えるが、
これも西晋にとっては大きなミスだ。
司馬越が早々に洛陽を後にしたことで、
乱を惹起した。
その首魁は懐帝である。
司馬越は確実にこの皇帝を舐めてかかっていた。
司馬越が懐帝に騙された。
一方で、懐帝も司馬越に警戒されないように、
振舞った。
振舞わなければ、司馬越は懐帝を警戒し、
洛陽を離れることはなかっただろう。
私は、
恵帝の死を、懐帝の手によるものと確信するが、
司馬越はそれさえも気づいていなかったのではないか。
これは司馬越に限らないが、
どうにも八王の乱のプレイヤーたちは、
甘さが残る。
どうにも球技でもやっているかのような甘さがある。
勝っちゃった、負けちゃったぐらいのアマチュアの世界である。
時代の風潮もあるのだろう。
この西晋という貴族名族社会において、
儒教的価値観が支配するこの時代、
どうしても上は上として敬われるべきという部分がある。
正しい行いをしていれば、
天命の下庇護される。
空虚な観念論の世界が出てくる。
トップに立つと、そういう伝説に毒されるのがこの西晋末期貴族層の特徴だ。
司馬越は八王の乱を勝ちきり、
懐帝の下新たな治世を作る。
まずは、国内の治安回復だ。さあ取り掛かろう。
そう思った矢先、若造に足をすくわれる。
50歳を優に超えた老練な政治家とは思えない甘い判断だ。
20代で政治経験の乏しい懐帝を侮っていた部分もあるのだろう。
懐帝は、
司馬越の警戒心を引き起こさないことに成功した。
うまく騙して、司馬越を許昌に赴かせた。
懐帝は実権確保のため
動く。
司馬越、懐帝の裏切り行為に憤る
まずは、司馬覃の皇太弟に立てることを企てる。
この事象も全く歴史の流れに溶けこまない話であるが、
丁寧に見ていくと、わかる。
八王の乱を経て、
皇太弟というのは、単なる皇太弟ではなく、
政権を摂る意味も含まれていた。
司馬穎が皇太弟となったことはそれを端的に示している。
それを司馬越に黙って勝手に行おうとしたら、
司馬越がどう思うのか。
好ましいと思うことはあり得ない。
となれば、
これは、司馬越に対する敵対行為となる。
司馬越は、豫州、兗州と治安確保のために、
旧司馬穎軍、汲桑・石勒軍と戦っている。
功労者の弟司馬騰をその戦いの中で亡くしているほど
力を尽くしているのに、
背中に刃を向けられた気持ちであっただろう。
ここまでされないと怒らないのが司馬越の甘さだ。
一方、
ここまでされて怒らない最高権力者もいないだろう。
安穏と洛陽にいるだけの皇帝にこのようなことをされたら、
怒りを覚えて当然である。