歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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劉淵 領土拡大の経緯 307年までは反司馬越 308年から反西晋活動が始まる。

 

 

劉淵の漢王としての活動と、
漢皇帝としての活動は意味もやることも大きく異なる。

 

それは劉淵が西晋の枠組みで政治・軍事活動を行なっていた時期、

そしてそこから外れた時期と重なる。

その象徴的な行動が、

王から皇帝になることである。

 

下記で辿っていきたい。

 

●八王の乱から司馬越死去までの流れ:

 


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299年に司馬穎が洛陽を追いやられる形で鄴に出鎮。

その際に、免官されていた劉淵は司馬穎の上奏により、司馬穎に従うことになる。
 
304年7月蕩陰の戦い 司馬穎VS恵帝・司馬越

→司馬穎の勝利。恵帝捕らわれる。司馬越逃げる。

ここで西晋皇帝の絶対権威が失われる。


304年8月司馬穎、司馬騰・王浚の攻撃により鄴を失陥。

→この戦いの前に劉淵は司馬穎軍から離脱する。

 

305年7月下邳方面で司馬越挙兵。


306年8月司馬越政権掌握。

306年10月司馬穎処刑。

306年11月恵帝崩御。

306年12月司馬顒捕獲、処刑。

 
307年3月 司馬越兄弟、出鎮。

※この時点の各勢力図は下記参照。

www.rekishinoshinzui.com

 


司馬越の次弟司馬騰は鄴へ。


307年5月司馬騰は汲桑・石勒軍の攻撃を受け、鄴を放棄。

司馬騰自身は逃亡中に捕捉され殺害される。


307年7月司馬越が司馬穎残党の汲桑・石勒軍を攻撃、撃破。汲桑・石勒軍は散り散りになる。
この後石勒は劉淵のところに逃げ込む。


307年12月旧司馬騰配下の乞活(きつかつ)により汲桑が殺害される。
※漢人武装流民集団。并州から司馬騰に従って逃げてきた漢人。

2万戸と言われる。人数で言えばば1戸4人と見ても10万人近いか。

司馬騰と共に鄴に入るも食糧が足りないため司馬騰の指示で冀州方面に

派遣される。独自の行動を取る。 


307年12月司馬越、丞相になる。懐帝派の弾圧。


310年11月司馬越洛陽から離脱。


311年3月司馬越死去。

 

 

●304年8月に劉淵が司馬穎軍から離脱した後の動き:


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304年10月 劉淵自立 左国城にて。

 

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司馬騰の攻撃、劉淵撃退する。

司馬騰、并州の2万戸余りの領民を率いて并州から離脱。
劉曜に命じて、泫氏、長子、屯留、中都を攻略。司馬騰を追撃した結果か。

そうならば司馬騰は上党郡を抜けて、洛陽方面に南下したと思われる。
 
305年司馬騰の攻撃。撃退。劉淵は離石の汾城を拠点とする。
しかし飢饉に襲われ、黎城(現在長治市。つまり上党)に遷都。
ここからは上党が本拠である。


 
307年劉琨と戦うが敗れる。劉琨は晋陽に入る。裏に回られる。

劉淵は上党に封じ込まれる形となる。
 
308年1月東西攻略開始。河東進出と太行山脈越えが目的。

劉琨は後回しにする。


308年7月蒲坂陥落、蒲子へ進出し、遷都。(河東進出)

これが河東攻略の端緒となる。上党から他地域へ伸展し、勢力拡大が加速する。


308年9月石勒、鄴を奪取。(太行山脈越え)


308年10月劉淵、皇帝になる。劉宣の死去。


309年1月平陽へ遷都。

 

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309年3月壺関攻撃。


309年3月黎陽(後漢末の官渡のこと)攻め。


309年8月洛陽攻撃、失敗。


310年8月劉淵、崩御。
 

 

●劉淵の軍事行動 307年までは西晋の枠組みの中で反司馬越


305年から306年にかけては、司馬騰とのみ戦っている。
305年7月に司馬越が司馬顒勢力に対して挙兵をしている。

弟の司馬騰は当然司馬越側。
司馬越勢力の重鎮司馬騰が全く司馬顒と関係のない勢力と積極的に戦うのは全くおかしい。
この時点での司馬越勢力の大目標は洛陽の陥落と恵帝の奪取である。
そのために作戦を行う。
司馬騰の劉淵攻撃は、確実にこの作戦のもと行われている。
この時点での劉淵は、司馬顒・司馬穎勢力の与党なのだ。反司馬越である。
 

●劉淵は司馬越が西晋の完全掌握した後に西晋から離反する。


307年12月に司馬越が丞相になったのち、

司馬越は東西攻略を本格化。
司馬顒・司馬穎勢力を継ぐ形となっていた懐帝を見切って、
劉淵は独立の道を歩む。

懐帝は司馬越との政権抗争に負けたためだ。


304年から307年までの劉淵は漢王を称したに留まり、
反西晋活動ではない。反司馬越活動である。
この当時王号の者は、優に20名は超える。

考え方によっては、
本来単于は皇帝と同格だったのであり、

単于家の血統の劉淵が王号ぐらい称しても何らおかしくはない。
司馬越、司馬騰らと王号で同格になったに過ぎず、

ただ匈奴内の支持を維持するためぐらいの意味しか持たない。
 
さらに王号止まりでは、反西晋にはならないのだ。
西晋皇帝の御代を認めれば、その下における王としての活動は

皇帝から認められるのだ。

王が皇帝の御代を認めると、

皇帝が王号を許可する。これを冊封という。

 

劉淵は、
308年から事実上の独立活動となる。
それは司馬越が懐帝を排除したからである。

懐帝に実権が全くなくなったからだ。


敵対する司馬越が西晋を掌握したことで、

劉淵はここで西晋から降りたということだ。

西晋の御代を拒否した。

この段階で西晋の御代を認めることは、

司馬越の傘下に入ることであった。

それは劉淵にはできない相談であった。