歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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恵帝毒殺の真犯人は後の懐帝司馬熾~司馬熾の出自から辿る②~

恵帝を殺したのは、司馬越ではなく、司馬熾である。

 

その理由を、

経緯、出自、動機の三点から説明したい。

 

ここでは②の司馬熾の出自から恵帝の毒殺を考える。

 

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【司馬熾(懐帝)の出自は相当に低い】

 

284年生まれのこの司馬熾。

 

確認できる武帝司馬炎の男子の中では、

一番下の子である。

 

毗陵悼王司馬軌(正則)2歳で夭折(母:楊元后)                    夭折   

恵帝司馬衷(正度)(259 - 306年)(母:楊元后)             47歳    暗愚

秦献王司馬柬(弘度)(262 - 291年)(母:楊元后)           29歳    頼りになる

城陽懐王司馬景(景度)(? - 270年)(母:審美人)               夭折   

城陽殤王司馬憲(明度)(270 - 271年)(母:徐才人)         夭折   

楚隠王司馬瑋(彦度)(271 - 291年)(母:審美人)           20歳    粗暴

東海沖王司馬祗(敬度)(271 - 273年)(母:匱才人)         夭折   

始平哀王司馬裕(濬度)(271 - 277年)(母:趙才人)         夭折   

代哀王司馬演(宏度)(? - ?)(母:趙美人)                             夭折   

淮南忠壮王司馬允(欽度)(272 - 300年)(母:李夫人)       28歳    沈着剛毅

新都懐王司馬該(玄度)(272 - 283年)(母:厳保林)         夭折   

清河康王司馬遐(深度)(273 - 300年)(母:陳美人)         27歳    内向的

汝陰哀王司馬謨(令度)(276 - 278年)(母:諸姫)           夭折   

長沙厲王司馬乂(士度)(277 - 304年)(母:審美人)         27歳    長身 果断 虚心坦懐

成都王司馬穎(章度)(279 - 306年)(母:程才人)           27歳    文盲

呉孝王司馬晏(平度)(281 - 311年)(母:李夫人)           30歳    眼病

渤海殤王司馬恢(思度)(283 - 284年)(母:楊悼后)         夭折   

懐帝・予章王司馬熾(豊度)(284 - 313年)(母:王才人)      29歳   

その他8人の男子                    夭折   

平陽公主(母:楊元后)                       

新豊公主(母:同上)                       

陽平公主(母:同上)                       

武安公主(母:胡貴嬪)                       

 

※西晋の制度では、三妃(貴嬪、夫人、貴人)、九嬪(淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、婕妤、容華、充華)、美人、才人、中才人。  

 

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上記も参考にどうぞ。

 

成人した武帝司馬炎の男子としては、

9番目の子である。

 

母は王才人。

才人も二種類あったとされるが、

王才人は、中才人であり、西晋の嬪位としては最下位である。

 

出自が低いと言われる、

恵帝の皇太子愍懐太子司馬遹の母は、「才人」であった。

司馬穎の母、程氏も同じく、「才人」であった。

 

司馬遹の母は、屠殺業者の家の子である。

これをもって出自が低いとされていたのがこの時代である。

 

後漢末の少帝の母何太后も同じく、

屠殺業者の出身である。

そのため何太后の兄何進は、

大将軍の位についても、

常に陰でその出自を噂された。

 

そのような歴史的に出自の低さを指摘される

屠殺業者の女子でも、「才人」である。

 

司馬遹と司馬穎は、母の出自という繋がりもあって仲が良かったが、

司馬熾の母はそれよりも低いのだ。

 

相当なことである。

 

武帝司馬炎の場合、複数の子供を産んでいる后は優遇している

という事実がある。

息子たちを王にして、母を養わせるのだ。

 

しかし、司馬熾を産んだ母には、司馬熾しか子がいない。

 

武帝司馬炎の50歳という晩年の気まぐれで、

手をつけた妃嬪の子という想像しかできない。

 

武帝司馬炎は56歳で崩御するが、

その時に司馬熾は6歳であった。

 

【武帝司馬炎の子として一応体面を保つ為に田舎の封邑をもらった司馬熾(懐帝)】

 

武帝司馬炎の死の前後に、

予章郡王に封じられる。

 

予章というのは、現在の南昌である。

翻陽湖の北にある。

 

荊州の雲夢沢の東、武昌から、長江をさらに下って、

山あいを越えた先に南昌はある。

 

荊州の武昌から、揚州に入った始めの都市が

南昌である。

 

三国呉にとっては、重要な結節点にある都市なのだが、

西晋から見れば、

単なる田舎である。

 

洛陽から行くには、

武昌周りでぐるりと回るか、

建業周りでぐるりと回るか。

 

交通の便も良くないところで、

武帝司馬炎の子としての対面を保つために

王に封じられただけのことである。

 

その後、この王司馬熾は、忘れ去られる。

 

武帝司馬炎家の一員なのに、

書物に耽り八王の乱の災禍から難を逃れていたなどというが、

何のことはない、権力争いする力すら、

なかったためだ。

 

司馬遹や司馬穎ですら、

出自の低さで差別されるこの時代。

 

それ以下の司馬熾が顧みられることはなかった。

皇帝としては当然相応しくない。

西晋は貴族名族社会である。

 

血統を重視する社会であり、

司馬熾のようなイレギュラーは到底許容し得ない。

 

【忘れ去られた王司馬熾が日の目を見た背景とは】

 

世から忘れ去られた存在だったが、

急遽司馬顒に目をつけられる。

 

司馬顒は司馬穎を旗印に八王の乱を戦ってきたが、

司馬穎が鄴を失陥し、用済みとなった。

司馬穎を皇太弟から外すのだが、

その後継者として司馬熾が選ばれたのだ。

 

司馬熾自体が何かをしたわけではない。

 

兄司馬穎が失脚したこと。

司馬熾が皇位という天命を受け継ぐことができる司馬炎の血を継いでいること。

 

ただこれだけだった。

 

武帝司馬炎の子で恵帝の弟でありながらも、

顧みられなかった存在、司馬熾。

 

呂后一族の内乱の結果、代から迎え入れられた

前漢文帝のごとくの、才能があるわけでもない。

 

それが突如脚光を浴びたのだ。

 

洛陽から遥かに遠い予章の王。

司馬熾はあんなところまで行ったことがあったのだろうか。

というぐらい田舎の王が、突如皇太弟となったのだ。

30412月のことである。

 

周囲の人々の対応が一変する。

 

それは司馬熾の劣等感を大きく払拭するようなものだったであろう。

 

しかし、司馬顒が司馬越との戦いに敗れ、

3066月司馬熾は恵帝と共に司馬越の手により洛陽に移される。

 

恵帝はそれでよかった。

恵帝はある意味素直で、

最高権力者の意向に刃向かうことなく、

権威としての皇帝という役割を果たしていた。

 

司馬倫簒奪後の恵帝復位から、

司馬冏→司馬乂→司馬穎→司馬顒→司馬越と

301年から306年までの5年間で、

五人の最高権力者が入れ替わり立ち替わり政権を掌握してきた。

 

恵帝の待遇は変われど、

皇帝としての存在を侵されたことはない。

 

それは、武帝司馬炎が人生を賭けて作り上げた、

天命は武帝司馬炎家のみ受け継ぐというストーリーのためである。

 

しかし司馬熾は司馬顒が司馬越に敗北したことで

非常に微妙な立場となった。

 

司馬顒が立てた皇太弟を司馬越が好ましいと思うわけがないのである。

 

司馬熾の出自の低さもあり、さらに武帝司馬炎の末子である。

皇位継承の必然はどこにもない。

 

武帝司馬炎の孫まで対象を広げれば、

候補者は、まだまだたくさんいるのである。

 

細々とやってきた田舎王の司馬熾は

皇太弟となり人生が一変した。

しかし、権力者が変わることで、

田舎の王に戻る、場合によってはそれ以下にさせられる

危機に陥ったのである。