劉輿・劉琨兄弟のそもそもの話に戻りたい。
劉輿・劉琨兄弟は前漢中山靖王劉勝の子孫である。
前漢景帝の子で、武帝の異母兄に当たる。
武帝というのは、前漢というより中国史上大変重要な人物で、
中華文明としてのあるべき姿を確立した人物である。
後世の皇帝は全て、このあるべき武帝の時代に戻ろうとする。
専制君主として四夷を討伐し、中華世界を治める。
これを讃え、これこそ正統とし、その裏付けとなったのが司馬遷の史記である。
皇帝としての正統を示した武帝が皇帝の理想像である。
これを理想形として皇帝の歴史が本格的に始まる。
皇帝の祖と言ってもよい。
一方で前漢武帝の系統が廃れていくと、
その新たな王朝を作るための主張も試行錯誤の時代がある。
それは王莽だったり、光武帝劉秀だったり、曹操・劉備・孫権だったりする。
その中で漢の子孫として後継者を自認する者たちが多々現れる。
後漢光武帝劉秀を筆頭に、
三国志の群雄、劉備を始めとして、劉表や劉焉が、
武帝の兄弟を祖とした末裔である、もしくは末裔と称しているのは偶然ではない。
武帝の兄弟を祖として頂くからこそ、
武帝とは別の王朝を主張できるのである。
武帝と並列の新しい正統ということである。
但し、限定されているとはいえ、
この武帝の兄弟の末裔というのはとてつもない数になる。
この上記の劉勝は、子だくさんで、120人以上いたとされる。
その末裔だから相当な数である。
これはともかく、いずれにしても、
劉輿・劉琨兄弟というのは、武帝の兄弟を祖としている。
血統としての価値は大きい。
弟劉琨は、石崇の招聘を受け、金谷園の宴に行っている。
劉琨は、詩も残っている。
兄劉輿が招かれたとはない。だが、劉輿に文才があろうがなかろうが、
弟が招かれていて、かつ劉輿も高名なのだから、
とにかく招かれていたのだろう。
劉琨は、司馬越の父で当時宗師として司馬氏一門を代表する
司馬泰の属官となっている。ここで、司馬越らの関りが見えてくる。
300年に司馬倫が、賈后政権に対してクーデターを起こし、
政権を奪取、その後恵帝から皇位を簒奪し、皇帝となる。
それでも劉輿・劉琨兄弟は健在であるが、その理由は
妹が司馬倫の嫡子司馬荂(シバフ)に嫁いでいたためというのが大きい。
司馬荂(シバフ)は皇太子となっていた。
しかし、
司馬荂(シバフ)は執政の孫秀と対立していた。
司馬荂は、孫秀の殺害を司馬倫に上奏したが、
逆に計画が孫秀に漏れ、殺害されてしまった。
文盲の司馬倫は孫秀に依存していたという関係性のみならず、
陳寅恪によると、司馬倫・孫秀の両者とも天師道(五斗米道)
に入信していた可能性があるという。
もしそうならば、単なる君主と臣下の関係だけではない。
孫秀の子孫に孫恩という者がいるが、
東晋末期に399年から402年まで孫恩の乱というものを起こしている。
五斗米道を信奉する者たちの反乱である。
それを考えると、孫秀が司馬倫を天師道に勧誘した可能性もあり、
司馬倫と孫秀は、非常に特殊な関係である可能性が高い。
可能性が高いぐらいしか言えないが、そうでもしなければ、
司馬倫が自身の嫡子司馬荂を見殺しにするなどという
理由付けはできない。
いずれにしても、司馬荂誅殺事件で、
劉輿・劉琨兄弟は放逐された。
その後ほどなくして、司馬倫・孫秀は滅びる。
司馬冏が政権を握るが、
だからこそ劉輿・劉琨兄弟は問題なく復権した。
司馬冏は政権を握るが、
司馬穎、司馬顒、司馬乂、司馬越が権柄を握るための戦いを
起こしはじめる。
司馬越が政権を握ると、さらに劉輿・劉琨兄弟は
重用されたということである。
劉輿は国家運営の輔佐をするも、早々に死去してしまったので、
ここからは劉琨の話になる。