東晋の歴史は桓玄簒奪で終わる。
●皇帝の影が薄い東晋
東晋は、
桓玄が皇位を簒奪したことで、
その息の根を事実上止められた。
この後劉裕により、
復興させられるが、
それは皇帝の力ではなく、
劉裕とそれを支える貴族名族の力であった。
もともと建国当初から、
皇帝の影が薄い東晋。
桓玄の簒奪により、
著しく権威を落とした。
劉裕の東晋復興で、
東晋皇帝は完全に飾り物になってしまった。
西晋、東晋は
皇帝自体が貴族名族出身の、
貴族名族連合と言える国家である。
当然両国とも似通った性格を持つ。
東晋の
桓玄簒奪と劉裕復興は、
西晋においては、
司馬倫の簒奪、304年の蕩陰(とういん)の戦いが、
歴史上の位置付けが非常に近い。
●狭義の八王の乱 宗族クーデター
司馬倫の簒奪で、
西晋司馬氏の宗族が相争い始める。
それは西晋皇帝恵帝の権威が落ちたからである。
そして、
それにとどめを刺すのが、
304年の蕩陰(とういん)の戦いである。
これは西晋皇帝恵帝が親征して、
宗族の司馬穎を討伐するものであった。
しかし、これに恵帝は敗れ、
捕虜となった。
これで西晋皇帝という存在は飾りとなった。
どれだけ、
皇帝という唯一人のストーリーがあっても、
実際に強さがなければ、
有名無実となるのである。
東晋でも、
西晋末期と同じ状況が起きたのである。
桓玄は簒奪する。
本当は着実にやればよかったのに、
桓玄自体が皇帝を軽んじていたから、
性急にことを運んでしまった。
だから、
皇帝になった桓玄自身も軽んじられるのだが、
桓玄はそれがわからなかった。
簒奪者扱いをされた桓玄は劉裕に追い落とされる。
このときの皇帝は誰であったのか。
●東晋皇帝安帝は知的障害者であった。
396年に孝武帝が死ぬと、
あとを継いだのは
安帝である。
この安帝は重度の知的障碍者であったが、
司馬道子により擁立された。
司馬道子は兄の孝武帝と権力争いをしており、
孝武帝を継ぐ者が
自身に反抗しない者を選ぶ必要があった。
安帝の知的障害レベルは、
一切の意思表示ができないという痛ましいものであった。
皇帝は意思表示ができない。
皇帝の存在感がなくなるのは当然である。
桓玄の簒奪も、劉裕の東晋復興も
この皇帝のもと行われた。
皇帝の実態がないのだから、
権威がなくなるのは当然である。
劉裕が東晋という国を復活させると、
劉裕が東晋を仕切ることになる。
●西晋末と東晋末は同じ構図
この東晋末の構図、
実は西晋末と同じである。
西晋;
恵帝、
司馬倫の簒奪。
304年の蕩陰(とういん)の戦いにおける敗北で、
西晋皇帝は死に体となる。
東晋;
安帝、
桓玄の簒奪。
劉裕による東晋復興。
東晋皇帝の実態がこれ以後なくなる。
このように構図が同じなのは、
非常に興味深い。
私は西晋恵帝は暗愚ではなかったと主張している。
●西晋恵帝の謎
しかし後世、西晋恵帝は暗愚とされるが、
これは東晋安帝が知的障害者という事実があり、
それを元に恵帝を暗愚だと言い切り、
わざわざ似通った構図にしたと私は考えている。
こうした構図にしたのは、
唐太宗末年に成立した晋書が由来である。
西晋恵帝の実態に関しては盛りすぎの部分もあるが、
大枠の構図は変わらない。
西晋の滅び方と、
東晋の滅び方は同じである。
同じ国なのだから、
その問題点も同じなのだろうが、成長がなかったということだ。
東晋は劉裕の復興以後は、
曹操が後漢献帝を奉じたのちの状態と同様になる。
後漢がすでに曹操の国のようになっていたように、
劉裕が権力を握ってから、
もう違う国家へと変貌していく。