いよいよ五胡十六国時代を終焉させた
北魏の太武帝拓跋燾(たくばつとう)の話に移る。
太武帝の廟号は、
世祖である。
これは大きな意味がある。
●「世」の意味。
太武帝に至るまでの世祖というのは、
世祖光武帝劉秀。
世祖武帝司馬炎。
世祖宣昭帝苻堅。
世祖成武帝慕容垂。
上記四人の皇帝である。
いずれも英雄である。
このうち三人に同じ字が含まれている。
「武」である。太武帝にもある。
実はあまり知られていないが、
これらは全て、前漢武帝に倣って、
廟号を付けているのである。
前漢の武帝は、
「世宗武帝劉徹」
である。
世祖ではないが、
世宗である。
同じ王朝では、
同じ廟号というのは付けられない。
廟号というのは、祖先を祀る宗廟というところに
祀るための「号」、つまり名前である。
だから同じには付けられない。
区別がつかなくなるからだ。
漢王朝(前漢・後漢を含む)の場合には、
光武帝の時点で、
すでに世宗は武帝に使われていた。
しかし、武帝に並ぶということで、
後漢を開いた、漢を復興させた、
劉秀を、「世」祖(廟号)「光」武帝(諡号)
とした。
この劉秀の例に倣って、
司馬炎、慕容垂は、廟号、諡号を付けられた。
なお苻堅も本来は「武帝」となるべきであったが、
淝水の戦いの大敗の後、
事実上国を滅ぼしてしまったので、
武帝足り得なかった。
●「武」の意味
武というと、武力行使などと言って、
攻撃を意味することが多い。
しかしその本来意味するところは、
「戈を止める」である。
この意味するところは、「平和」である。
「戈」という字と、
「止」という字を合わせて、
「武」と書く。
「戈」は「か」と読み、
「両刃の剣に長い柄をつけた大昔の武器」(googleから引用)
のことを指す。
戈をおさめる(戦いを止める)、という故事成語もある。
つまり、武には、平和になった、という
現代では想像しにくい意味があり、これが原語の意味なのである。
武帝というのは、平和をもたらした皇帝という意味になる。
武帝というと、武力行使をした荒々しい皇帝という意味に思える。
そういう部分もあるのは事実だが、
本義は平和をもたらした、という意味であることを強調したい。
なお、清の康熙帝の、「康熙」も平和という意味である。
上記の皇帝たちと王朝内での立ち位置、評価は同じであり、
平和をもたらした最上位の皇帝である。
●我が子孫だけが後を継ぐ、「世祖」。
廟号の方に話を移す。
太武帝は「世祖」である。
「世」の意味だが、
「生滅の起こる場所。人間が社会生活を営んでいる場所。よのなか。よ」
(googleから引用)
である。
つまり、世というのは、人間社会全体のことを指し、
この祖、つまり、それを生み出した大元の人物、というのが
「世祖」となる。
少し意訳すると、
新しい時代を創り出した人物と言える。
前漢武帝、後漢光武帝、
西晋司馬炎、苻堅、慕容垂
といずれも新しい時代をもたらした人物、と言える。
前漢武帝と苻堅は注釈すると、
まず前漢武帝は、
いわゆるチャイナプロパーを統一した。
前漢高祖は確かに、項羽を打倒し、
中華を統一したが、
江南や山東は、王を置くのみで、
実際の支配権は確立していなかった。
それが完全支配となるが武帝の時代で、
ここから本来の中華完全征服王朝としての漢王朝が始まる。
そうした意味で、
武帝は上記の意味での「武帝」であり、
新たな世の中の創造主としての「世宗」と言える。
●非嫡流の苻堅が皇帝となる。
前秦の苻堅なのだが、
彼はあまり知られていない事実がある。
これも調べればすぐにわかることなのだが、
苻堅自身は、本来は皇帝を継ぐべき嫡流ではなかった、ということだ。
先代の皇帝苻生が暴君により、
廷臣の反乱が起きた。
その結果、苻堅が迎え入れられたという経緯である。
苻生の血は苻堅には入っていない。
従兄弟同士なので祖父母は同じであり親戚であるが、
当時、今もそうだと思うが、
兄弟はそれぞれ別の家を建てるので、
系統は別である。
今よりも当時の方がこの感覚は厳密だということは強調したい。
苻堅の場合には父が本家から分流した家の祖であり、
嫡流の苻生とは別系統になる。
何よりも重要なのは、
財産権が異なる。
嫡流から幾分かは与えられるが、その後は
自分たちで財産を築き、管理することになる。
なお、これは、遊牧民、狩猟民などの
いわゆる異民族の場合はより厳格である。
さて、そうした背景があって、
苻堅が皇帝を受け継いだ。
別系統、別の家が継ぐ。
●我が血統こそ嫡流=「世」の意味。
そもそも皇帝というのは、
大元の皇帝(前漢であれば劉邦。太祖。)が天命を受けて、
その子孫がその天命を代行するというものである。
どこぞの本流がこの天命を受けるのであり、
同じ劉氏であっても、
関係がない、ということに最後は至る。
しかしなんらかの理由で、
本流がこの天命の代行ができなくなった時に、
別の家が、この大元の祖先を祀り、
天命を代行する。
となればこの家が今後は
天命の代行者=皇帝となる。
話が長くなったが、
結論、
この宣言が、世祖、世宗である。
天命を受けた人物ではないが、
新しい世を創った、という功績を背景に、
今後はこの人物の子孫が
天命の代行者となる。
天命を受けなおした、と言ってもよい。
それが、
前漢武帝、
後漢光武帝、
西晋武帝司馬炎、
前秦苻堅、
後燕慕容垂、
なのである。
彼らは実は、
ライバルがいて、自身が皇帝となった背景がある。
武帝は廃嫡された兄の後を受けて、皇太子となった。
光武帝は群雄割拠で、前漢劉氏の血筋であるが、同程度の血統はいくらでもあった。
司馬炎は弟の方が後継者として優れていると言われ続けた。
苻堅は本来は皇帝となり得る系統ではなかった。
慕容垂は異母兄の皇帝慕容儁に徹底的に嫌われた。そもそも第五子であり、兄で皇帝の慕容儁とは、
母も異なり、後を継げる系統ではなかった。
つまり、世祖というのは、
後を継げる系統ではなかった、
もしくは疑義があったのに、
継いだ。
そして、今後はこの系統が後を継ぐのだ、
という意味合いを含んでいる。
●この血統が嫡流だという宣言が「世」。
この世祖という廟号が含む意味合いについて、
上記にて説明した。
ところで、
この意味が発動するタイミングはいつなのか。
これがもう一つ重要である。
廟号なので当然、廟号を贈られる当事者が死んでからになる。
基本的には喪が明ける3年後となる。
ここで重要なのは、
世祖とする意図は誰が持つのか、
ということだ。
これには二つのパターンがある。
一つ目は先代の皇帝、つまり世祖という廟号を贈られる
人間が遺言として決めたパターンだ。
今後は、自分の子孫のみが
後を継ぐ。
ほかの系統は許さない。
二つ目は、
後継者がそう決めるということだ。
自分自身の系統のみが後を継ぐ。
父こそ世祖であり、その子孫だけが後を継ぐ。
父の兄弟にはその権利はないと。
ここまで細かくなると、
流石に事実を辿ることは難しい。
だが、
西晋の司馬炎が世祖となったのは、
司馬炎が確実に決めていただろうというのは、
察しがつく。
そもそも、
司馬炎は父司馬昭の後継者として、
同母弟司馬攸と水面下で争った。
賈充の後援もあり、辛くも後継者の座を
獲得した司馬炎だったが、
この問題は、司馬炎が禅譲を成功させ、
皇帝となってからも、尾を引いた。
今度は、司馬炎自身の後継者として、
司馬攸の方が良いのではないか、という
輿論が生まれた。
それは、
司馬炎の嫡男司馬衷(のちの西晋恵帝)が
暗愚と言われていたからで、
それよりも、儒教君子の司馬攸の方が
良いという議論が頻繁にされた。
司馬炎としては、
当然面白くない。
それでは司馬炎はただの中継ぎになってしまう。
皇帝となり、
呉を征服し、中華を統一しても
言われればそれは不快なことであっただろう。
結局、司馬炎は同母弟司馬攸を憤死させる。
それでも、40代半ばまで、
司馬炎自身、および自身の系統に
天命を受け継ぐのに、事実上難ありと言われた
というトラウマは消えない。
司馬炎自身の死後、
世祖武帝とするように、と遺言したはずだ。
これであれば、
ほかに系統がずれることはない。
世祖は光武帝のことで、
武帝は前漢武帝のことである。
両者とも
その実績から、その後自身の後継者しか、
皇帝になっていない。
なお、
父司馬昭は太祖であった。
司馬炎は前漢文帝のように太宗でもよかった。
また曹丕と同じく、高祖でもよかった。
しかし世祖だったのは、
自身の功績を世に確定させて、
自身の皇帝としてのポジションと、
自身の血統のみ、すなわち弟の系統を排除したかったからである。
●太武帝が「世祖」=漢化の一つ。
最後に
北魏世祖太武帝の話に戻る。
実はこういった経緯から、
太武帝は本来は世祖である必要はなかった。
父明元帝の嫡男であり、
実力も申し分がない。
確かに華北を統一したが、
前漢武帝や光武帝、司馬炎のように、
中華を統一したわけではない。
ではなぜ世祖なのか。
結論として、
これは太武帝の最晩年から後継者争いが起きたためである。
宦官の宗愛が太武帝を殺害し、
太武帝の末子拓跋余を後継者とした。
しかしながら、この拓跋余が宗愛の思い通りにならず、
結局殺害。
これを見た、ほかの廷臣が宗愛を誅殺して、
結局元の皇太子の嫡子で12歳の文成帝を建てた。
これは太武帝の死後1年以内の出来事である。
文成帝サイドとしては、文成帝の叔父拓跋余の皇帝即位はなかったこととし、
太武帝が死んですぐに
文成帝が皇帝になった、ということにした。
しかしながら、
太武帝は44歳で殺されていて、
太武帝の同世代の皇族がまだ健在である。
例えば太武帝の弟の拓跋崇は453年に
実際に反乱を計画している。
異民族の部族社会の気質を色濃く残している
北魏において、
12歳の文成帝が後を継ぐのは本来は、
非常に困難である。
弱肉強食のロジックが通じる北魏では、
本来は難しかったものの、
ここを中華の論理、文成帝の祖父太武帝に
世祖という廟号を贈り、
ほかの系統をまずは排除する、
皇帝にさせない、という
名分をつけて、
後継者争いを沈静化させる。
これこそ、
北魏の強み、
異民族と中華のいいとこ取りをする、
という面が良い意味で出た、事件である。
なんとなく私も含めて、
世祖の意味合いは、
新しい世を創った、中華や華北を統一したから、
世祖だ、と思っている人が多いと思うが、
これは違う。
のちにフビライも世祖、明の永楽帝も世祖(成祖)
だが、その本当の意味は、
この人、世祖の系統だけが皇帝位を継ぐの意味である。