太宗簡文帝司馬昱、この名前の意味。
司馬昱が皇帝となる、その意味。
●司馬昱が司馬昭を継ぐ。
太宗簡文帝司馬昱。
廟号が太宗、
諡号が簡文帝である。
これには深い意味がある。
これは、
西晋・東晋の祖、
司馬昭を継ぐことの宣言である。
太宗簡文帝司馬昱は372年に死去、
桓温は373年に死去するので、この廟号と諡号を
決めたのは桓温である。
桓温の意図は、
司馬昱が司馬昭になぞらえて同じ立ち位置の人物となる
ということであった。
これについて説明したい。
●太宗の意味。
司馬昱が太宗という廟号であることはあまり知られていない。
だが、事実である。
ここに隠された歴史がある。
司馬昱が太宗となる時点の歴史において、
太宗と称される人物が一人いる。
前漢の文帝である。
文帝は、呂氏大乱の結果、
兄の恵帝の血統が絶えた。
それにより、
文帝は長安に迎えられ皇帝となった。
これにより血統が変わる。
天命を受けた皇帝の血統が変わると、
この当事者の人物自体も顕彰される。
この家の祖として、
太宗という廟号を贈られる。
「太」=はじまり。
「宗」=おおもと。
という意味である。
なお、
「祖」=創始者
である。
この家系、血統の始まりの人という意味である。
血統を変えたことを宣言しているのに等しいのである。
太宗と言えば、中国史で最も有名なのは、
唐の太宗李世民であろう。
李世民も実は、血統を変えている。
626年の玄武門の変で
本来は皇太子であった兄をクーデーターで廃嫡。
李世民が皇統を奪っているのである。
だから、
太宗となる。
太宗に対する一般的な印象は、
名君だから太宗というものだと思う。
しかし、これは太宗李世民が名君とされたからであって、
本来の意味は新しい皇統を立てた人物のことである。
さらに言うと李世民の諡号は大変長いものだが、
彼も文帝である。(後に「武」という諡号も玄宗の時代に付け加えられた)
李世民は、「唐太宗文帝」である。のちに武帝ともなった。
下記は、武帝の意味を認識していなかったために
後に李世民が武帝ともなった経緯を記している。
諡号が長くなる理由でもある。
●「唐太宗」
このように、皇統が変わると太宗、なのである。
太祖というのは、
王朝の創始者である。
天命を受けた当事者である。
天命を受けたのはあくまでこの創始者その人であり、
子孫は、皇帝ではあるものの、
創始者の遺志・意思を代行する立場である。
これが中華皇帝というものの在り方である。
太祖は唯一一人で変わらない。
西晋・東晋の場合には、司馬昭である。
しかし、司馬昭が受けた天命を代行する子孫の血統が、
ここで司馬昱に変わったということなのである。
●簡文帝、つまり「文帝」
司馬昱は諡号が簡文帝である。
実は文帝というのは、
既に西晋・東晋王朝では存在している。
司馬昭のことである。
司馬昭は
太祖文帝であった。
つまり、桓温は司馬昱を「文帝」とすることで、
西晋・東晋の祖司馬昭になぞらえているのである。
天命は変わらず、
西晋・東晋王朝のものであるが、
事実上皇統が司馬昱のものとなり、
ここでいわば、王朝内革命が起きたのである。
また、前漢の太宗文帝になぞらえることで、
新時代の到来を感じさせる。
こうすることで、
桓温は、
異民族による華北統一王朝の脅威に対処し、
再度の北伐を企図するのである。
実際にこの太宗という廟号・諡号をつけられたのは、
司馬昱の死後だが、
こうした位置付けであったのである。
しかし、
司馬昱は371年に即位するも、
翌372年に早くも崩御する。
幼帝に変わって、老年の司馬昱を皇帝に据えることで、
強力なリーダーシップの下で、
北伐や土断の推進などに当たろうとしたが、
すぐにその桓温の夢は潰えてしまうのである。