- ●鮮卑慕容部、その孤立の理由。
- ●鮮卑慕容部、7代かけて皇帝となる。
- ●親中華の鮮卑慕容部は異民族から嫌われる。
- ●鮮卑慕容部の親中華は、魏司馬懿の遼東攻略に始まる。
- ●八王の乱をきっかけに鮮卑慕容部は孤立することになる。
- ●四面楚歌を勝ち切った鮮卑慕容部は王朝となる。
- ●皇帝となって滅びる最後まで孤立した前燕帝国
前燕を建国した鮮卑慕容部。
鮮卑慕容部は中華王朝に服従する事で浮沈を経験した。
そして、中華王朝に服従をすることをやめた時に、
それ以外の鮮卑慕容部生き残りの成功要因は戦い続けることであった。
孤立して戦い続ける、これは前燕の滅亡まで続く。
●鮮卑慕容部、その孤立の理由。
それは鮮卑慕容部が遼東・遼西にあって、
常に中華王朝の冊封を受けてきたからである。
鮮卑慕容部は、常に四面楚歌の中、勝ち残ってきた。
鮮卑段部、匈奴宇文部、高句麗、そして西晋から自立しようとした王浚、
その後は後趙の石勒、石虎と常に敵対し続けた。
鮮卑慕容部としての生き残り方は、中華王朝の冊封を受け、
遼東の地で孤軍奮闘するのみであった。
それは、鮮卑慕容部の立ち上がり方に由来がある。
慕容部の祖、莫護跋(ばくごばつ)は司馬懿の遼東公孫淵討伐に従軍して名を挙げた。
これで莫護跋の勢力が魏により認められたのである。
曹魏の承認の下、遼東での基盤を作る。
その後は西晋、東晋の承認の下、鮮卑慕容部としての勢力を維持した。
それが前燕が帝国になるまでの一貫した方針だった。
●鮮卑慕容部、7代かけて皇帝となる。
①莫護跋…
慕容部の始祖、率義王を拝命する 238年の魏の司馬懿による遼東公孫淵討伐に従軍。
②慕容木延…
莫護跋の子、左賢王を拝命する 244年245年の魏の毌丘倹による高句麗遠征に従軍する。
③慕容渉帰(? - 283年)…
木延の子、鮮卑単于を拝命する。西晋の冊封を受ける。
④慕容耐(刪)(283年 - 285年殺される)…
渉帰の弟
⑤慕容廆(285年 - 333年)…
渉帰の次男嫡子 西晋、途中からは東晋の冊封を受ける。
⑥慕容皝(333年 - 348年)…
廆の三男、前燕を建国。
王を僭称した際には東晋と断交するもその後修好。それ以降は東晋の冊封を受ける。
⑦慕容儁…
皇帝となる。
このようにして、立ち上がりから、
慕容儁が皇帝を僭称するまで、一貫して魏や晋といった中華王朝に
臣従、冊封してきたのである。
●親中華の鮮卑慕容部は異民族から嫌われる。
これは、つまり周辺の異民族の反感を買う。
基本的に、異民族は中華王朝に反発するものだが、
鮮卑慕容部はその出自から、中華王朝に擦り寄って、
時には高句麗討伐の尖兵として戦っている。
鮮卑慕容部の周辺異民族からすれば、
慕容部は異民族である鮮卑族なのに、
魏や晋にしっぽを振ったということになる。
目の敵にされて当然なのである。
鮮卑慕容部に対する周辺異民族からの差別意識が生まれるのは当然である。
鮮卑慕容部は、魏晋の中華王朝の冊封を受ける代わりに、
中華王朝から、高い文明力の恩恵を受けることになる。
文物、文明力、貢納すれば基本的に100倍返し、
このメリットは、周辺の異民族の嫉妬を買った。
西晋が八王の乱、永嘉の乱で落ち目になると、
鮮卑慕容部よりも、後発の鮮卑段部、匈奴宇文部が力を持つようになる。
それが西晋から離反しようとする王浚と結びつき、
鮮卑慕容部にとって大きな脅威になる、という構図である。
鮮卑慕容部の背後には、
伝統的に反中華の高句麗が、
親中華の慕容部を牽制する。
こうして、元々一人だけ良い思いをしていた鮮卑慕容部が、
四面楚歌に陥るのである。
周辺勢力とは完全断交の鮮卑慕容部。
結局、西晋、東晋との関係を維持して、
自身の立場を守るしかなかったのである。
●鮮卑慕容部の親中華は、魏司馬懿の遼東攻略に始まる。
魏の遼東政略に関して、
鮮卑慕容部は魏に与した。
魏の遼東攻略の総括は司馬懿である。
243年244年に毌丘倹が高句麗遠征を行う際にも引き続き
鮮卑慕容部は魏に与する。
毌丘倹は後に、司馬懿の嫡男司馬師が曹芳を皇帝から廃したのち乱を起こすが、
皇帝廃位までは司馬懿ら司馬氏一族に近かった。
魏晋革命が起き、
司馬炎が皇帝となったのちも、
鮮卑慕容部は引き続き晋に与する。
上記の理由から、司馬氏一族にルートがあったのだ。
遼東は鮮卑慕容部を中心として、西晋は統治することになる。
●八王の乱をきっかけに鮮卑慕容部は孤立することになる。
これが変わったのが八王の乱だ。
狭義の八王の乱は300年に始まる。
西晋皇帝恵帝の皇太子で賈后の実子ではない、
司馬遹が賈后により殺される。
これに対して、司馬倫が主導して、賈后を殺害する。
これにより、西晋が完全に内乱状態となる。
西晋の遼東に対する勢威が及ばなくなった。
このタイミングから鮮卑慕容部苦難の時代が始まる。
幽州に王浚が台頭。
鮮卑段部、匈奴宇文部を取り込み、鮮卑慕容部を叩く。
王浚が滅びても、
段部、宇文部との戦いは続く。
一方で河北に勢力を伸ばした石勒も鮮卑慕容部へ矛先を向けるも、
何とか退かせる。
石勒の死後は、その後継者石虎も鮮卑慕容部を潰しにかかるが、
何とか撃退する。
●四面楚歌を勝ち切った鮮卑慕容部は王朝となる。
そうした中、
鮮卑慕容部は徐々に鮮卑段部、匈奴宇文部を追い込み、
最終的に滅亡させた。
合わせて、背後の高句麗も屈服させ、
鮮卑慕容部は遼東・遼西に覇を唱える。
348年に慕容儁が鮮卑慕容部の部族長として、
そして前燕王国の王として、後を継ぐ。
その翌349年に後趙の石虎が死去。
後趙が内乱状態になると、
慕容儁は中華へ侵入。
後趙を乗っ取った冉閔を庶弟慕容恪が見事撃破、
捕虜として処刑すると、河北へと進出。
河北の黄河以北エリアを確保するに至り、
慕容儁は皇帝となる。
●皇帝となって滅びる最後まで孤立した前燕帝国
皇帝は不倶戴天で、天下に一人しかいない存在。
既に東晋の皇帝がいるのに、
慕容儁が皇帝となるというのは、
東晋の皇帝を否定することに他ならなかった。
ここで、鮮卑慕容部の国是とも言える、
東晋臣従策を放棄する。
それは鮮卑慕容部が遼東で生き残るための方策であった。
が、もはや段部も宇文部も石勒も石虎もいない今、
東晋に頼る必要が亡くなった。
今で言う中国は非常に広い範囲の領土を有するが、
この時代における中華の中心は、河北である。
ここを押さえたからには、
前燕は中華王朝として皇帝を名乗るというのは、
一つの考え方として理解できる。
しかしながら、これにより、
前燕は外交的に孤立することになった。
そもそも周辺勢力との外交関係を築く素地のない、
鮮卑慕容部。唯一東晋と友好関係を保ってきたが、
東晋と断交した今、他と結びつくこともできない。
こうして、
前燕は370年の滅亡まで、孤立し続ける。
逆を返せば、この戦乱の世の中において、完全孤立で、国を守るどころか、
領土を拡大した前燕は、強力な軍事国家と言える。
だが、好戦的な前燕は、外交がうまくいかず、
最終的には国を滅ぼすのである。