殷浩が姚襄に裏切られ、
北伐は失敗。
殷浩は姚襄を暗殺しようとしていたのだから当然であった。
桓温の、殷浩に対する左遷要請に、建康政府(つまり司馬昱)は折れ、
殷浩を放逐する。
こうして桓温にお鉢が回ってくる。
ここで352年の殷浩北伐失敗から370年の前秦華北統一までの
約20年間の概観を先に記したい。
●石虎後の河北動乱
河北では、
350年、冉閔が魏を建国。(冉魏)
後趙石虎死後、動乱の結果、冉閔が台頭した。
この河北混乱に乗じて、
鮮卑慕容部の慕容儁は、
弟の慕容恪に命じて、幽州に侵攻。
薊、范陽を攻略し幽州を確保。
龍城から薊へ遷都する。
余勢を駆って、
351年から、鮮卑慕容部は冉閔の冉魏を攻撃。
352年4月、
冉閔と慕容恪は中山にて干戈を交える。
慕容恪は劣勢だったが、軽騎を使って破れたふりをして、
兵を誘引。
そこで奇襲を仕掛け、冉閔を捕獲。
その後処刑する。
慕容恪は冉閔を捕獲する大勝を挙げ、
一気に河北の掌握。
慕容恪はこの戦いで勝利をしたことで、
明確に名を挙げる。
352年11月、前燕慕容儁は中山に遷都。
慕容恪の兄に当たる、慕容儁は皇帝となる。
これまで鮮卑慕容氏は東晋の冊封を受けていた。
王であったのを、皇帝となったことで、
東晋と手切れとなる。
皇帝は不倶戴天で地上に一人。
慕容儁が皇帝になるということは、
東晋の皇帝を認めないと言ったのと同じである。
●中華皇帝とは:
●鮮卑慕容部、勢力伸長の経緯:
この時点で鮮卑慕容部は、遼東エリアを完全に制覇していたのが大きい。
鮮卑慕容部が勢力伸長したのは、
慕容皝(ぼようこう)の時代である。
鮮卑慕容部の大人(頭領)の地位にあったのは、334年から348年である。
337年に王を僭称。
338年には後趙石虎の攻撃を跳ね返す。
この石虎遠征の際、石虎の攻撃により亡命してきた段部の頭領、
段遼を殺害。長らく遼西で力を持っていた段部が消滅。
341年には、東晋に前燕の王号を承認させる。
東晋のこの当時の最高権力者は庾冰で、将来の後趙をターゲットとした
北伐のためであった。東晋にとっては、遼東の鮮卑慕容部は、
後趙の裏を突いてくれる都合のよい相手であった。
343年には旧満州の高句麗を完全屈服させる。
344年には宇文部を滅ぼす。
遼東を完全掌握していた。
348年に慕容皝は死去。
嫡男の慕容儁が跡を継ぐ。
349年に石虎が死去。
ここから後趙の混乱が始まる。
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●前燕帝国が河北の覇者、氐族前秦が関中に割拠。羌族姚襄は割拠できず、前燕に投降。
357年には、
前燕は鄴へ遷都。河北の覇者となる。
一方で、
関中は姚襄と広い意味で同郷の、
氐族の苻健が占拠。
前秦を建国していた。
こちらは石勒、石虎に倣い、
天王となる。
漢民族の間では、異民族は皇帝にならないという考えが根強い。
円滑な統治を進めるために、
関中の漢民族に配慮したものである。
しかしながら、前秦はうまく統治が出来ずここから20年近く内乱続きではあったが。
内乱が終わり、
国内がまとまるのは前燕の慕容徳が前秦に投降したときである。
いずれにせよ、
苻健が関中を抑えたために、
姚襄は関中に戻れなくなった。
そのため姚襄は前燕に投降する。
東晋は殷浩の北伐は失敗に終わったが、
そのままの勢力を保つ。
●357年から五胡十六国時代の三国時代 前燕・前秦・東晋
ここに五胡十六国時代の第2フェーズが始まる。
※引用元:中国歴史地図集 366年時点勢力図。
第1フェーズの主役であった、
石勒、石虎の後趙崩壊後の大混乱の結果、
前燕、前秦、東晋の三国鼎立となる。
●前燕
鮮卑の慕容部が打ち立てた王朝。
非常に好戦的で、友好的な外交戦略を選択しない。
鮮卑は半農半牧の民族で、
中華進出するも早々に都市統治に成功、
かつ軍馬の調達、騎兵の養成も両立させ、
高い軍事力を誇る。
支配する河北は、高い文明力を持ち、豊かなエリアである。
後趙、石勒・石虎の本拠地であり、
伝統的な先進地域でもあるためである。
●前秦
関中は、大きな盆地である。
そのために守りやすい土地である。
しかしながら、
長安を中心とした関中エリアが強勢を誇ったのは、
大分昔のことである。
それは、王莽の時代まで遡らなくてはならず、
後漢においては、重要視されなかったエリアだった。
三国魏においては、
蜀漢に対する軍都としての役割で、
文明を担うエリアでもない。
大した潜在能力を持たないのがこの関中である。
河北の前燕に比べて領域も狭い。
この相対的に領域の狭い関中ですら、
氐族の前秦は統治に苦労した。
それは、絶対的に漢族の多いこのエリアで、
氐族はシャーマニズムを中心とした統治を行ったためである。
異民族である氐族が支配者として、
シャーマニズムで関中を統治する。
その関中は中華思想の漢族が多数派である。
まとまるわけがない。
ということで、
前秦は建国から約20年近くまとまらなかった。
ようやくまとまったのは、
369年の前燕慕容垂の亡命により、
前燕が事実上崩壊したことによる。
前燕の軍事部門のトップである慕容垂が
前秦に亡命するということは、
軍事機密が全て漏れたことを意味する。
かつ、慕容垂は前燕の宗族であり、
前燕自体が分裂したことに他ならなかった。
前秦は洛陽に雪崩れ込み、
前燕を滅ぼし、華北の覇者となる。
●東晋
357年時点から369年までの東晋は、
桓温の全盛期に当たる。
長安に迫り、洛陽を陥し、
多大な名声を得た。
しかしながら、
369年の第三次北伐において、
前燕慕容垂に敗れたことにより、
桓温の威名が衰えていく。
さらにこの第三次北伐は、
前秦に漁夫の利を得させてしまう。
三国鼎立だったのが、
前秦が華北統一してしまい、
東晋にとっては北に大きな脅威ができてしまった。
桓温は亡くなる373年まで焦り、もがくのだが、
それはここで触れる時代から逸れるので、
一旦割愛する。
東晋は、この357年から369年までの
五胡十六国時代の三国時代、
桓温の下まとまっていた。
東晋としても唯一強勢を誇った時代と言える。
●参考記事:
●参考図書: