338年に代を継承、
376年に前秦苻堅に滅ぼされるまで、
代王として君臨した拓跋什翼犍。
見えにくい史実だが、
拓跋什翼犍は前燕鮮卑慕容部に従属をしていた。
鮮卑拓跋氏の拓跋什翼犍時代は前燕あっての繁栄であったのである。
●石虎を裏切って自立する拓跋什翼犍
後趙石虎の人質であった、
拓跋什翼犍。
兄が死去したことで、石虎の許可の元、
代王となるべく、帰国する。
当時、石虎は、遼東の鮮卑慕容部を攻撃するも、膠着状況。
石虎としては、後趙を継承後、初めての外征ということもあって、
確実に勝利したいところであったが、うまくいかなかった。
この状況を見た、拓跋什翼犍は
石虎から離反する。
離反して、前燕鮮卑慕容部慕容皝と結びつく。
慕容皝の妹、娘を拓跋什翼犍は王后として迎える。
鮮卑慕容部は慕容皝の父、慕容廆以来、ずっと西晋・東晋の冊封を受けてきた。
拓跋什翼犍が鮮卑慕容部と組むということはすなわち、
東晋サイドにつくことになる。
拓跋什翼犍は石虎が前燕鮮卑慕容部討伐の事実上の失敗という
機を活かして、自立することとなる。
●前燕鮮卑慕容部が河北の覇者となる。
349年に後趙の石虎が死去。
これを機に後趙が内乱。冉閔により、後趙は滅びる。
この冉閔を倒すのが、前燕鮮卑慕容部である。
鮮卑慕容部は、357年までに後趙の残党、また山東半島に割拠する
宿敵鮮卑段部も滅ぼし、河北の覇者となる。皇帝を称す。
早くから、前燕に従属していた拓跋什翼犍は、
この前燕の大躍進の恩恵を受け、国内がまとまることになる。
拓跋什翼犍の前燕鮮卑慕容部に対する姿勢は、
必ずしも従順なものでもなかったが。
お互いに反目しなければならないほどの、
権益争いもないので、安定した状況となる。
拓跋什翼犍は漠北まで勢力を伸ばす。
●370年の前燕滅亡とともに拓跋什翼犍も窮地に陥る。
前燕鮮卑慕容部は、卓越した軍事国家だった。
つまり、戦争に強いのである。
しかし、地形、風土が変わる江南までは勢力を伸ばせず、
また苻堅が固める関中までも手が届かなかった。
これまで前燕の対外侵略と胡漢融合を
推進してきた慕容恪が367年に死去することで、
前燕が一気に崩れ始める。
慕容垂と慕容評の対立。
そこに東晋桓温の第三次北伐がきっかけとなり、
前燕が事実上崩壊。
これを見た、関中の前秦苻堅が王猛に軍勢を率いさせて、
前燕を滅亡させる。370年のことである。
●唇亡びて歯寒し、の拓跋什翼犍
代の鮮卑拓跋氏を率いる拓跋什翼犍にとっては、
これは大事件であった。
決して苻堅との接点がなかったわけではないものの、
鮮卑慕容部に比べればそのつながりは薄い。
鮮卑慕容部は拓跋什翼犍の元々後ろ盾であるし、
王后に鮮卑慕容部の娘を迎えていた。
鮮卑慕容部の従属国である。
鮮卑慕容部を滅ぼした前秦苻堅からすれば、
敵対勢力とみなされるわけである。
潜在的には完全な敵である。
ここを鮮卑拓跋氏の従属勢力、匈奴鉄弗部に
足元をすくわれる。
鮮卑拓跋氏と匈奴鉄弗部の関係は、
鮮卑慕容部と鮮卑拓跋氏の関係に似ている。
匈奴鉄弗部は鮮卑拓跋氏から后として迎え入れていた。
匈奴鉄弗部は鮮卑拓跋氏の後援のもと、成り立っていた。
そして、決して従順でないところも似ていた。
当時の匈奴鉄弗部の首長、劉衛辰は
拓跋什翼犍に従属ではなかった。
拓跋什翼犍も徳を施すようなタイプではなく、
異民族流の弱肉強食の考えで威圧するのだからやむを得ない。
劉衛辰は、一気に勢力を伸ばした前秦苻堅と図り、
代、拓跋什翼犍の討伐軍を起こす。
拓跋什翼犍はこれに抗することができず、
376年に代・鮮卑拓跋氏はここで一旦滅びる。
拓跋什翼犍が従属していた前燕鮮卑慕容部が370年に滅びてから
6年後である。
正に唇亡びて歯寒し、である。
●参考図書:
シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))
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