北魏の事実上の開祖、拓跋珪。
非常に戦いに長けた指導者であり、
一代で河北の覇者となった。
- ●395年参合陂の戦いを引き起こす、慕容垂・拓跋珪の断交。
- ●拓跋珪は慕容垂の宿敵西燕と手を組む。
- ●394年本来の前燕正統政権西燕を慕容垂が滅ぼす。
- ●慕容垂、病に倒れる。
- ●異民族の名将君主の子は「文弱」になるというセオリー。
- ●慕容垂の焦り。
- ●参考図書:
拓跋珪の成功のきっかけは、
結論から言えば、拓跋珪が慕容垂と手切れになったからである。
逆説的であるが、一度は窮地に陥るも、だからこそ
後燕と戦えたのであり、勝利を収めたから後燕の領域を
獲得できたのである。
角度を変えてみると、慕容垂が拓跋珪と断交してくれたからこそ、
拓跋珪は北魏帝国を作れたのである。
歴史を俯瞰してみることができる我々としてはこういう判断にはなるが、
未来がわからない、当時の拓跋珪にとっては絶体絶命の状態である。
●395年参合陂の戦いを引き起こす、慕容垂・拓跋珪の断交。
拓跋珪が大躍進したのは参合陂の戦いで、
後燕に勝利したからである。
この戦いに至ったのは、
そもそも、後燕鮮卑慕容部の慕容垂サイドが、
拓跋珪を圧迫したからである。
拓跋珪率いる鮮卑拓跋氏は、
拓跋什翼犍が338年に後趙から自立する際に、
鮮卑慕容部から後援を受けてから、
従属関係にある。
拓跋珪が386年に鮮卑拓跋氏を復興させてからも、
その関係性は、慕容垂に受け継がれていた。
だからこそ、
拓跋珪としては、
淝水の戦いの後の中華の争乱には加わらず、
鮮卑拓跋氏の旧領回復に専念する。
しかし、拓跋珪の戦いが思いのほかうまくいったので、
慕容垂はこれを嫌がった。
慕容垂としても、まだ後燕が固まっていない時期に、
北魏鮮卑拓跋氏が服属するのはありがたいが、
西燕をあと一歩のところまで追いつめた今、
北魏との関係性を明確にする必要がある。
後燕慕容垂が主であるということを。
そこで、
外交下手の慕容垂は、拓跋珪の使者を拘留し
金銭や馬を要求する。
拓跋珪の使者は、自領で内乱が起きたので、
慕容垂に出兵をしてもらうためであった。
拓跋珪としては、苦しい状況だから援兵を求めたのである。
慕容垂のいやらしい圧力に対して、
頭を下げて、金と馬を持ってこればよかったのだ。
しかし、
慕容垂に似て、外交下手で戦上手の拓跋珪は
このようには捉えなかった。
慕容垂側からの手切れと捉えた。
もしくはこれをチャンスに拓跋珪は従属をやめて自立しようとしたか。
私は慕容垂からの手切れと拓跋珪は考えたと思っている。
それは、
この時点で、拓跋珪としての宿敵、匈奴鉄弗部の劉衛辰を滅ぼし切れていない。
劉衛辰は、前秦苻堅を引き込んで、鮮卑拓跋氏を滅ぼした人物である。
さらに滅びた後の鮮卑拓跋氏領域の西部を支配した。
この宿敵を滅ぼすのが、
拓跋珪の第一目標であり、これが達成されない中での、
河北の覇者となりつつあった後燕慕容垂との手切れは考えにくい。
そのため、
上記の慕容垂の拓跋珪に対するアプローチは、
拓跋珪にとっては、手切れのメッセージと捉えたわけである。
●拓跋珪は慕容垂の宿敵西燕と手を組む。
後燕慕容垂と手切れとなった拓跋珪は、
西燕と同盟する。
西燕は、前燕の直系政権であり、慕容垂の正統性に疑義を唱える政権である。
拓跋珪がその西燕と結びつくということは慕容垂にとって、
決して許されることではない。
これで、拓跋珪と慕容垂の関係は完全に決裂する。
西燕との同盟は、拓跋珪にとって、
慕容垂と断交してからの事後策であった。
この点からも、両者の断交は、拓跋珪にとって意図するものではなかったことが
わかる。
●394年本来の前燕正統政権西燕を慕容垂が滅ぼす。
とはいえ、西燕は当時既に衰退しきっており、
上党周辺しか支配していなかった。
最後の君主慕容永は
建国以来混乱の続く西燕をまとめたものの、
慕容垂の子孫、および前燕の直系である慕容儁の子孫も
自分の手元にある人物は全て抹殺したことで、
外交的に孤立。
北魏との同盟があっても、趨勢は変わらなかった。
後燕慕容垂は394年に、この西燕を滅ぼす。
西燕併呑したことを受けて、
後燕慕容垂はいよいよ、
北魏拓跋珪攻略に乗り出す。
●慕容垂、病に倒れる。
五胡十六国時代を代表する名将の一人、慕容垂。
しかしながら、
西燕を滅ぼした時点で既に69歳と、
当時としては相当な高齢であった。
西燕を滅ぼした394年8月時点では慕容垂は元気であったようだが、
この後、病に伏す。
北魏拓跋珪は、
中華圏をほぼ支配しておらず、財力等は乏しいものの、
異民族ならではの騎兵集団がいた。
拓跋珪自身の能力は、匈奴鉄弗部を攻略するなど、
武名は轟きつつある。
当然慕容垂は自身の親征を考えたであろう。
しかし、歴戦の名将も病には勝てない。
●異民族の名将君主の子は「文弱」になるというセオリー。
やむなく、皇太子の慕容宝に軍を預ける。
この慕容宝は355年の生まれ。
鮮卑慕容部が河北に進出して中華王朝となったのちの子供である。
慕容垂は326年の生まれで、20代までを北方で過ごした。
つまり、馬と親しんで20代まで生きたのであり、
そこで戦いというものを学んでいた。
しかし、慕容宝は慕容垂の子とは言え、
中華文明に親しんできた人物である。
中華に進出した異民族王朝というのは、
初代は勇猛なものの、
その後を継ぐ者たちはどうしても、中華文明を理解せざるを得ない。
将来の統治のためである。
統治手法としては中華の知見の方が、異民族よりも勝っているので
やむを得ないのだ。
法制度、官僚機構など、どうしても中華流が求められる。
異民族の王者に屈服させられた漢人貴族・官僚も
次代の後継者に希望をつなぐ。
必然的に次代の後継者は「文弱」になってしまうものなのである。
先代に比べて。
この異民族の王者が慕容垂で、
次代の後継者で「文弱」なのが皇太子慕容宝であった。
皇太子が総大将として出兵するというのはあまりあるものではない。
何故なら、皇太子以上の昇進というのはあり得ないからだ。
皇帝が崩御しなければそれはあり得ず、いくら軍功を挙げても
意味がない。
そうした一方で、
軍事遠征での不慮の失敗というのはどうしてもある。
そうなると、将来の皇太子の評価を損なう。
だから余程でないと、皇太子の出兵というのはない、というのが
セオリーである。
しかし、今回は皇太子慕容宝が総大将として出兵した。
●慕容垂の焦り。
慕容垂としては焦っていたのではないかと私は考えている。
いくら西燕を滅ぼし、前燕を上回る領域を獲得したとはいえ、
前燕が従属させていた北魏が離反したまま。
また、北魏は古の匈奴と同じポジションであり、
軍事的には脅威ではある。
これを滅ぼしてこそ、慕容垂の国盗りは完成する。
69歳という高齢ということもあり残された時間の短さを
慕容垂は認識していたであろう。
一気に拓跋珪を攻略しなければならない。
ということで国を挙げての出兵となれば、
皇太子を出す必要があると考えた。
さらに、この勝利こそが、
慕容宝への皇位継承をを円滑にすると慕容垂は考えたが、
結果は裏目に出た。
#北魏 #拓跋珪 #慕容垂
●参考図書:
シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))
- 作者: 岡田英弘
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2014/05/24
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