前回は慕容評の歴史的評価に対する疑問点を挙げた。
今回は慕容評の実像を考えたい。
●慕容評とは何者か。
さて、そもそも慕容評とは何者なのか。
慕容垂の叔父である。
慕容垂は、兄に慕容儁、慕容恪がいる。
慕容儁は前燕の皇帝となり、
慕容恪はその輔弼に当たった。
彼ら慕容儁、慕容恪、慕容垂の父が、
慕容皝である。
慕容皝の時代に燕王を称す。
この慕容皝の弟が慕容評である。
慕容皝と慕容評の間に兄が複数いるが、
慕容皝が父慕容廆の後を継いだ際に、反乱を起こした。
慕容皝の兄弟の中で、慕容評は反乱を起こさなかった。
大人しいのか、従順だったのか。いずれにしても反乱を起こさず、
慕容皝を助けた。
●慕容評は実は甥慕容恪らと同世代。
慕容皝は
297年生まれ、348年に没するのだが、
慕容評は339年が史書上の初出である。
後趙石虎との戦いにおける記述である。
これが初陣だとすると、15歳前後、初出が遅かったとみても、
20歳前後だ。
となれば、兄慕容皝とは、20歳近く年齢が離れていたことになる。
慕容評は生没年がいずれもわからないのだが、
どうやら、慕容皝とは年の離れた兄弟だったようだ。
慕容皝が父慕容廆の後を継いだのが、
333年。この後兄弟争いが始まるが、
その時には慕容評は年端も行かない弟だったということである。
一方、慕容恪は一説には321年生まれとされている。
歴史上の初出はこちらも後趙石虎との戦いで、
寡兵をもって後趙石虎軍と戦い、退けている。
慕容評から見て、慕容恪は兄の子で甥なのだが、
実は年齢が近いということがわかる。
慕容評が339年の時に15歳なら、生まれは324年、
20歳なら319年である。
慕容恪より年上か年下かという問題はあるものの、
同世代なのは間違いないだろう。
●慕容評と慕容恪の相性が良い理由
慕容恪は母が漢人であり、
漢文化の教養を備える。
長幼の序、つまり叔父である慕容評に対して慎み深く交流を持ったはずで、
関わり合い方だけではどちらが年上かは判然としない。
しかし間違いなく言えるのは、
彼ら慕容恪と慕容評は間違いなく良好な関係を築けていたということだ。
前燕が約20年の短命で終わったこと、
後に、前燕復興の体で後燕を創った慕容垂が慕容評から排除されかけていたことから、
この慕容恪、慕容評の関係性はフォーカスされない。
しかし、
348年に慕容儁が父慕容皝の後を継ぎ、
その後19年に渡り、破竹の勢いで河北を席巻するのは、
慕容恪と慕容評がうまく役割分担をして慕容儁を支えたからである。
要所要所で、慕容恪は遠征をしてくる。
石虎死後の混乱に乗じての中山進駐、
冉閔との決戦、
青州を領して前秦の冊封をうけた鮮卑段部段龕討伐、
桓温北伐で東晋が領有していた洛陽侵攻などは
慕容恪が遠征している。
後世に轟く慕容恪の功績は非常にわかりやすい。
しかし、慕容恪は人臣のトップであり、
基本的には前燕皇帝の側に仕える。
基本的には本拠にいなくてはならないのである。
本拠にいなくては政務が滞ってしまうからである。
この辺りの事情は諸葛亮に似ている。
●後世のイメージとは異なり慕容評は最前線で戦っている。
対して、慕容恪が出張るまで、
対外遠征を行っていたのは、
慕容評なのである。
冉閔の冉魏の都で後趙石虎政権の都でもあった鄴を陥落させたのは、
慕容評なのである。
慕容恪が進駐するところであっただろうが、
中山遠征、冉閔決戦と戦いが続いたこともあり、
当時の前燕の都、薊に帰還している。
慕容儁が348年に後を継いだ時も、
慕容恪、慕容評という序列なのだが、
事実、軍事行動もその序列であった。
内は慕容恪、外は慕容評、
重要度に応じて慕容恪が出張るということであった。
このコンビは前燕の急速な領土拡張を実現するが、
西は洛陽、南は淮水の線まで達したところで勢いは止まった。
騎兵はこの先はうまく展開できない。
騎兵に強みを持つ北方異民族の、
鮮卑慕容部の限界とも言えるが、
それよりも前燕の外交下手というのは特筆に値するだろう。