●羌族姚氏、石虎後の戦乱で最も割りを食った。
後に後秦を建国する姚氏だが、
後趙石虎の死去後の混乱で最も割りを食った部族である。
彼らは結論として、
後趙の中枢にいたために、時世の変化に乗り遅れたのである。
羌族姚氏の事実上の祖、姚弋仲(ようよくちゅう)は
石虎が後趙を乗っ取るのに有力な支援者となった。徙民はさせられたが、河北の清河郡という肥沃なエリアを割り当てられ、
後趙において優遇された。
首領の姚弋仲(280年ー352年)、および次代の姚襄、
それぞれ優秀な指導者であり、
武勇に優れていた。
姚弋仲の死後、
姚襄は時世に乗り遅れたせいで、
江南から豫洲、洛陽、幷州に至るまで流浪するが、
最後まで従った部族も多かった。
平陽周辺を領するが、最後は前秦の苻堅と戦い、
姚襄は敗死。
主を失った羌族姚氏は、氐族前秦の苻堅に降伏する。
●羌族姚氏の出自。
羌族姚氏は、南安の赤亭(今の甘粛省隴西県)の出身である。
出典:ウィキペディア 隴西県の一風景。
三国志において、
姜維の北伐はこの辺りを主戦場としている。
また諸葛亮第一次北伐の際、この隴西は蜀漢に寝返っている。
魏の地にあって、蜀漢に心を寄せていたエリアである。
この羌族姚氏の歴史は、
劉曜の関中討伐に始まる。
少し羌族姚氏が登場に至るまでの前提について説明したい。
ここに西晋の残党が割拠していた。
西晋自体は、
311年6月に匈奴漢による洛陽陥落、および懐帝の拉致で、
事実上滅亡していた。
だがこの懐帝が匈奴漢により処刑されたのちの313年4月、
関中長安で西晋の残党が集まって新しい皇帝愍帝を擁立した。
この関中は長安に存在する、
西晋残党政権の攻略を任されていたのが、劉曜である。
一般的には、この愍帝政権は脆弱であったとされるが、事実ではない。
戦上手で有名であった劉曜は愍帝政権の攻略に三年かかっている。
虫の息と思われた愍帝政権だが、
匈奴漢と良く戦ったのである。
その原因は、匈奴漢の方針転換が大きかった。
当時の匈奴漢皇帝劉聡が、父劉淵以来の胡漢融合から、
異民族重視に切り替えたのである。
これが漢民族全体の反発心を引き起こした。
結果的に愍帝政権継続のモチベーションとなったのである。
劉曜は三年かけて、
関中を316年に攻略、拉致した愍帝は317年に処刑。
ここに名実ともに西晋王朝は滅亡した。
西晋の命脈は、建康にいる司馬睿に引き継がれる。
劉曜は関中の占領をし、さらに西に軍を進める。
蕭山を越えると、天水である。
ここには、西晋司馬氏の宗族司馬保がいた。
司馬保は司馬睿のライバルで、
司馬睿が東晋を成立させた後も、
この王朝を認めなかった。
司馬保は、西晋の最高権力者司馬越の甥であり、
司馬睿は司馬越に仕えていた。
司馬保は司馬睿の主筋なのである。
司馬睿の下風に立つことは許し難かった。
そして、そう考える西晋勢力もいたのである。
自ら晋王を名乗り、独自の政権をそれこそ脆弱ながら築いていた。
元々、関中の愍帝政権はこの司馬保が首班であり、
皇帝ではないものの最後の西晋残党と言える。
この存在は大きく、
涼州姑臧(こぞう。現在の武威)にあった前涼張氏は一旦は東晋を認めたものの、
司馬保に気兼ねをして撤回したほどだ。
この西晋最後の残党司馬保政権にこの天水周辺で従っていたのが、
羌族姚氏である。
司馬保が臣下の裏切りにより横死。320年5月のことである。
西晋と言える勢力の完全滅亡である。
●匈奴漢の分裂。姚弋仲は前趙に属する。
この事件の前に320年初頭、
匈奴漢が分裂している。
劉聡の後の内乱を劉曜は制し、皇帝となったが、
河北は襄国・鄴を本拠とする石勒に疑心を抱く。
劉曜は石勒を切り離すも、既に河北で自立した勢力を築いていたため、
華北を支配していた匈奴漢が、
劉曜の前趙と石勒の後趙の二つに分裂することになった。
323年に長安の前趙皇帝劉曜は天水方面へ侵略。
ここで、
姚弋仲は劉曜の傘下となった。
姚弋仲は280年生まれ、
劉曜に屈服した時で既に43歳である。
これが、姚弋仲の歴史の上での初登場である。
大分遅い登場である。