事績のわかりにくい石勒。
石勒についてできるだけ簡潔に記したい。
- ①石勒、三つの史上初:
- ②石勒の生まれ:
- ③流浪の民から奴隷へ:
- ④世に出る:
- ⑤反司馬越:
- ⑥劉淵のもとへ:
- ⑦各地転戦:
- ⑧旧司馬越軍を殺戮する。
- ⑨西晋の滅亡:
- ⑩豫州の葛陂で自立を決意する:
- ⑪王浚との戦い:
- ⑫匈奴漢の崩壊と前趙・後趙の成立
- ⑬劉曜との華北制覇戦:
- ⑭石勒、皇帝へ:
- ⑮石勒の死後:
①石勒、三つの史上初:
・石勒は、中国史上唯一、奴隷から皇帝になった英傑。
劉邦、朱元璋を越える史上最大の下克上である。
・異民族として始めて長江以北の華北統一を成し遂げた。
・異民族と漢民族の融合政策を始めて行った皇帝でもある。
・西晋王朝を事実上滅亡させる。
・国家として初めて仏教を庇護。
②石勒の生まれ:
・石勒が生まれた時代:
274年生まれ、333年に59歳で(数え年では60歳)死去。
西晋の全盛期に生まれ、
20代は八王の乱真っ盛り、
その後西晋が崩壊。
その中で、勝ち残って華北の覇者となる、それが石勒である。
・出身民族:
匈奴の亜種、羯族の生まれとされる。
匈奴はテュルク系民族であり石勒もその一人である。
私の推測では、ソグド人である。
つまり、
唐代の安禄山と同じである。
ソグド人はソグディアナの民族である。
ソグディアナは現代で言うと、
中央アジアのサマルカンドを中心とするエリアである。
中国の言い方では西域に属する。
石勒の出生地は、
并州は朔方郡の生まれ。
今の大同市のそばである。
③流浪の民から奴隷へ:
石勒はある部族長の子供だったが、
生活は苦しく、
上党の方に逃れた。
上党は太原の南東、鄴の西、洛陽の北にある。
その際に、
当時の并州刺史で司馬騰の配下が奴隷狩りを行なっていた。
司馬騰は、西晋皇帝の一族司馬氏の重鎮の一人、司馬越の弟である。
その司馬騰の指揮のもと、
民を拉致して、奴隷として売っていた。
それに石勒は捕まり、奴隷となる。
④世に出る:
奴隷として売られたが、
石勒は人品卑しからず、
他の奴隷身分から解放された。
石勒は馬の目利きがいいこともあり、重宝がられる。
そのうち、八王の乱が激化し、
傭兵として石勒は八王の乱に参加することになる。
⑤反司馬越:
石勒は司馬穎サイドに傭兵として参戦。
戦う相手は、司馬越。
奴隷にさせられた司馬騰の兄であり、
因縁を感じさせる。
この戦いの中で、因縁の相手・司馬騰を殺害している。
⑥劉淵のもとへ:
しかしながら、衆寡敵せず、
石勒は司馬越に敗れる。
何とか石勒は逃げることができ、
当時上党で西晋から自立していた、
匈奴の劉淵の元に逃げ込む。
⑦各地転戦:
劉淵に評価をされた石勒は、
兵を預けられる。
上党から太行山脈を抜けて東方の攻略を任せられる。
石勒は308年早々と太行山脈を抜き、
その先にある西晋の副都・鄴(ギョウ)を攻撃。
石勒は鄴を陥落させる大殊勲を挙げる。
鄴の周辺は、殷の時代からの交通の要衝である。
交易を行うにも利点が多い場所であった。
一時廃れたが曹操が三国志の時代に鄴の開発を推進。
曹操が作った要塞もあり、守りも堅い。
洛陽に勝るとも劣らない、最重要都市の一つである。
この後、石勒は一旦華北から
南方へ転戦する。
⑧旧司馬越軍を殺戮する。
石勒は転戦の最中、
当時西晋の最高権力者になっていた司馬越が
10万人の大軍を引き連れて
豫州を移動していることを知る。
このとき、石勒は山を挟んだ南側の荊州でこれを知った。
軍隊とはいうが、
輜重、つまり荷物が多く、
また文官が多数従っている集団で、
軍勢とは言い難い。
行き先は、江南方面であった。
戦乱の起きている
黄河北岸の河北や荊州などではない。
集団で洛陽から逃亡を図っている様子。
西晋皇帝との対立の結果であった。
石勒はこの司馬越の軍勢を豫州項県にて捕捉し、
10万人の軍勢を殺戮した。311年4月のことである。
場所は洛陽と建業のちょうど真ん中である。
このひと月前に司馬越は死去していて、
軍勢の統制もうまく取れていないという幸運も重なった。
これにより、
西晋は完全に劣勢となる。
⑨西晋の滅亡:
劉淵から匈奴を引き継いだ劉聡は、
西晋の帝都洛陽を総攻撃。
石勒もこの攻撃に参加。
311年6月に洛陽を陥落させる。
西晋皇帝懐帝は捕虜となり、西晋は事実上滅亡。
しかし、
石勒は洛陽陥落直前に、
総攻撃の大将劉曜から外されていた。
洛陽から東南方面の豫州攻略を命令されたのであった。
異民族の戦勝に関する褒賞は略奪で
石勒はそれから外されたのである。
ここから石勒は自立傾向を見せる。
⑩豫州の葛陂で自立を決意する:
劉曜の命令による石勒の目標は
江南の建業にいた司馬睿である。
後に東晋を成立させる司馬睿の勢力はこの時点の
西晋勢力では最も強大だった。
洛陽から南東へ豫州を越えて、寿春、建康へと進むのが
石勒軍のゴールである。
しかし、312年、
寿春を目の前にして、
石勒は豫州の葛陂で立ち往生した。
葛陂(かつは)は、汝陰郡にある。
春秋時代は陳があったエリアである。
マクロで見ると、洛陽と建康(建業。今の南京)の間にある。
これまで石勒は連戦連勝の常勝将軍であったが、
実はこの辺りから地形が変わる。
湿地帯が増え、
石勒が得意とした軽騎兵主体の戦いが
できなくなるのだ。
苦戦してこれ以上進軍ができない。
無理をしてこれ以上進軍するほど、匈奴に義理もない。
石勒は悩みに悩み、命令違反を承知の上で、
華北へと撤退する。
それは、
石勒自身が匈奴から離反して自立するためであった。
ここが少しややこしいが、石勒は自立するために、
河北へ戻るが、明確に離反するわけではない。
それは319年に趙王として独立する時である。
⑪王浚との戦い:
匈奴の劉聡には表面的に従っておき、
自身の勢力を作る。
それには劉聡の影響力も使える河北が、
割拠するのに最適であった。
その目的のための最大の難敵は幽州の王浚である。
王浚は、薊、すなわち現代の北京に本拠地を置いていた。
その王浚勢力の南真正面の襄国に
石勒は本拠地を置く。
襄国は現代の刑台市である。
現代ではここから北に向かって、
石家庄、北京へと向かう。
現代の北京に本拠を置くのが王浚である。
石勒は、314年に王浚最大の支援者、
鮮卑段部を排除し、
王浚を殺害するに至った。
この後、石勒は并州の劉琨を倒し、
故郷の并州も勢力圏に入れる。
劉琨は幽州の鮮卑段部の残党の元に逃げ込み、
石勒を攻撃する姿勢を見せる。
江南の祖逖も北伐を行い、
挟み撃ちを受けかけるが、
石勒は劉琨を謀略で殺害。
これで石勒は河北をほぼ制圧した。
⑫匈奴漢の崩壊と前趙・後趙の成立
318年、匈奴の劉聡が死ぬと後継者争いが起きる。
匈奴陣営の実力者、
劉曜と石勒が介入。
結果として、劉曜が皇帝になる。
この争いでしこりが残った劉曜と石勒は、
その後すぐ、
対立関係に入る。
匈奴は漢の国号を名乗っていて劉曜はこの王朝を
引き継いでいたが、
劉曜はそれを変更する。
理由は二つあり、
劉曜自身の正統性を作ることと、
石勒への当て付けである。
劉曜は王朝の名前を
こじつけで趙とした。
これは石勒が趙王であったことの当て付けであった。
石勒も劉曜と対立関係に入ったことをきっかけに、
完全に自立。石勒も趙という国を建国する。
石勒はこの時点では皇帝にはならなかった。
この時点で二つの趙が並立する。319年のことである。
劉曜の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼ぶ。
劉曜は長安、
石勒は襄国にそれぞれ本拠を置く。
華北の西は劉曜、東は石勒が勢力を張った。
石勒陣営は周辺エリアの制圧を着実に進めたが、
劉曜陣営の勢力圏はほぼ変わらずのままだった。
⑬劉曜との華北制覇戦:
328年、
小競り合いのもつれから、
石勒、劉曜それぞれが親征、
洛陽郊外における大決戦となる。
石勒が勝利し、劉曜を捕虜とする。
本拠地の襄国に劉曜を送り、処刑。
ここに石勒は華北を統一する。
狭義の八王の乱が300年に始まってから、28年。
非常に長い戦乱の世であった。
後漢末の戦乱は、184年の黄巾の乱から、
曹操が207年に華北統一するまで23年。
あの黄巾の乱をきっかけとし、
人口を10分の1まで減少させた後漢末の大乱よりも長かったのである。
⑭石勒、皇帝へ:
330年、群臣の推戴を受け、石勒は皇帝に即位。
奴隷から皇帝へと中国史上最大の下克上を成し遂げた。
最後は、三国志の曹操が、
支配した最大領域とほぼ同じ領域を
石勒は支配することになる。
晩年は、後継者問題に悩む。
嫡子の行く末を案じながら石勒は崩御。
⑮石勒の死後:
石勒崩御後は、
石勒一族で、建国の元勲石虎が乱を起こし、
石勒の血族を排除して帝位を簒奪する。
石勒が建国した後趙は石虎が死ぬまで
強い勢力を保つ。
しかし石虎の死後後継者争いで大混乱に陥り、
351年後趙は滅亡する。