- ●秦の献公に始まる7代かけた天下取り。
- ●秦の献公以後は事実上の新王朝
- ●戦国時代の主導権を秦が握るまでの経緯概観
- ①秦の献公年表
- ②秦の孝公年表
- ③秦の恵文王年表
- ④秦の武王年表
- ⑤秦の昭襄王年表
- ⑥秦の荘襄王年表
- ⑦秦王政年表
戦国時代は、
魏の時代が最初で、
次に斉の時代が訪れ、
最後に秦の時代となり、中華が統一される。
●秦の献公に始まる7代かけた天下取り。
秦の隆盛は秦の孝公に始まるが、
その基盤を整えたのは実は、
秦孝公の父、秦の献公である。
春秋時代の秦の穆公の後、
中原に影響を及ぼす事績に乏しかった秦。
辺境の国秦は、
秦の献公の即位から急速に中原諸国と接点が増える。
中興の祖、秦の献公である。
ここから7代に渡る天下取りが始まる。
①秦の献公、
②秦の孝公、
③秦の恵文王、
④秦の武王、
⑤秦の昭襄王、
⑥秦の荘襄王、
そして⑦秦王政に至り、中華統一となる。
秦の献公以来数々の新たな施策が実施される。
このような情況からして、秦の献公に始まるこの系譜は、
事実上新しい王朝と言えると私は考える。
●秦の献公以後は事実上の新王朝
秦の献公は本来は後を継ぐべきだったのに、
継ぐことができず、他の系統が後を継いだ。
しかし、内紛の結果、結局秦の献公が継いだとしている。
この辺りの話は不明瞭で怪しい。
またこの手の話は、
晋の文公重耳の祖父、晋の武公が
晋の本流を滅ぼして乗っ取った話に
似通っており、後付けの臭いがする。
秦の献公以降は国がまとまり、
君主の強い権限のもと改革が推進されることから、
秦の献公以降は
それまでとは異なる何らかの新しい王朝だと私は考えている。
例えば、歴史の古い国は簡単に遷都できない。
従属する諸族の利権が絡むものであり、
簡単ではない。
戦国時代遷都を行ったのは、
三晋という新興国家に限られ、
それ以外は楚が秦に首都を奪われたタイミングに限られる。
歴史の古い国においては、
遷都は基本的にない。
君主の権限が強くてもできない。
諸勢力の反対が強いばかりか、
その概念すらないのが普通である。
なのに、即位直後遷都をした秦の献公は、
それまでの秦公とのつながりを感じさせないのである。
むしろ、このような場合の遷都は、
昔からの勢力からの影響を避けるための遷都と考えた方が
一般的である。
●戦国時代の主導権を秦が握るまでの経緯概観
秦の献公と秦の孝公は、
内部を固めつつ、とにかく東の魏を攻めまくる時期である。
それが功を奏し、
魏の西河、河東を手に入れる。
これは春秋の旧晋のメインエリアで、開発の進んだエリアでもあった。
戦国時代の初めに主導権を握った魏が
没落していく時代とちょうど重なり、
秦は時の利を得ていたと言える。
その後恵文王の時に、
斉以外の他国を凌駕するようになる。
そこを斉に叩かれ、秦は隠忍自重の時を送る。
その間、斉は全盛期。
斉が中原を押さえているため、
秦は函谷関より東に出れない。
秦は南方へ目を向け、
蜀、巴エリア確保。そして楚を狙う。
秦の昭襄王の時、
斉が宋の攻略を機に、
他の六国を敵に回す。
斉の失策である。
秦の昭襄王は合従軍の一角として、
斉を攻撃、亡国寸前まで追い込み、
さらに楚を攻撃、湖北・湖南エリアを確保。
戦国時代は秦の時代へと移る。
①秦の献公年表
・前385年秦の献公即位。
献公即位まで秦は内紛が続いていたがこれで収まる。
・前384年秦、殉死を禁止する。
殉死は異民族の文化。これを禁止するということは、
漢化を意味する。逆を返せば、秦は異民族であったとも言える。
・前383年秦、雍城から櫟陽に遷都。
関中平野の西端から東端に遷都。中原方面へ軸足を置く。
国境を東に接する魏の攻撃が始まる。
上記にも書いたが、
この遷都は国家としての体質が変わった可能性の高い
史実である。
・前361年秦の献公死去。
②秦の孝公年表
・前361年秦の孝公即位。
同年、魏が都を河東の安邑から中原の大梁に遷都。
秦からすれば、東は黄河の向こう、河東に
魏の本拠地安邑があったが、
この遷都により魏の圧力が下がったことになる。
これで、胸をなで下ろすか、攻勢に出るかは、
秦の中枢部次第である。
・前359年秦、商鞅の変法開始。
商鞅が何をしたか、簡単に言えば君主権の強化である。
・前350年櫟陽から咸陽に遷都。
関中平野の東に位置する櫟陽から
真ん中の咸陽に遷都。
・前340年秦の商鞅、魏を侵略、黄河以西の西河を奪う。
前342年に魏は馬陵の戦いで斉に大敗。
魏は弱っていた。
これで関中の確保が成る。
・前338年秦の孝公、死去。
③秦の恵文王年表
・前338年秦の恵文王即位。
(まだ王号を名乗っていないので、侯である。)
その後商鞅殺される。
商鞅の変法は既存勢力の権益を奪うものであった。
秦の孝公の死で商鞅に対する反発が噴き出た結果であった。
恵文王はこれを認めるが、
商鞅変法の路線は変更しない。
商鞅は恵文王に改革のための生贄にされた。
・前325年秦の恵文王、王を称する。
王を称するのは、
魏が前351年、斉が前339年、趙が326年、
秦はこれらに続く四例目。
この後、前323年に燕が、
前322年に韓と宋が王を称する。
・前318年秦の恵文王、魏の式典に模して、蓬沢の会を催す。
恵文王は、
魏王と韓王を諸侯として扱う。
この式典に反発し、合従(合縦)成立。
反秦同盟、反秦包囲網ができたと考えた方がわかりやすい。
趙、韓、魏、燕、斉と義渠(後の匈奴のこと)が秦を討つ。
秦の中原進出が鈍るようになる。
・前316年秦が蜀と巴を攻略。
蜀王を贈り物で釣って騙し討ちして獲得した。
・前312年秦、楚の漢中を攻略。
張儀の策略で楚を江北へ出兵させた隙を突いての攻略であった。
前311年秦の恵文王死去。
恵文王という諡号からは想像しにくいが、
かなり狡猾な王であった。
④秦の武王年表
・前311年秦の武王即位。
・前307年秦の武王死去。
秦の武王は怪力自慢で、
周王の権威を象徴する鼎を持ち上げようとして失敗し、
大怪我をする。
その怪我が元となり、なくなった。
⑤秦の昭襄王年表
・前307年、
趙の武霊王の後援の下、昭襄王即位。(~前251年)
・前298年斉の孟嘗君による合従により、秦は攻撃を受ける。
秦は函谷関以東に締め出される。
・前297年秦、会盟のためにやってきた楚の懐王を拘留する。
懐王は秦に拘留されたまま死去。
約100年後の項羽が秦を滅ぼす時にこの事件がプロパガンダとして
使われる。秦楚間はこれで完全に決裂する。
・前289年、斉の湣宣王と秦の昭襄王、帝を称す。
(宋王偃の帝を名乗ったことに対する対抗か。)
・前286年斉が宋を滅ぼす。
宋の帝号に対して斉も帝号を称して同格の君主として攻め込んだ。
・前284年斉に対抗して、燕、楚、趙、魏、韓、秦の
連衡成立(反斉同盟)。
上記斉の宋攻略を諸国は嫌った。
燕の楽毅を中心とした連衡軍、斉の臨淄を攻略。
斉は亡国寸前に追い込まれる。
・前280年、斉は田単の尽力で、復国。
・前279年秦、白起が楚を攻撃。
・前278年秦、楚の王都郢を攻略、湖北エリアの確保。
・前277年秦、蜀から長江沿いに下り、湖南も掌握。
ここから、戦国時代が秦の時代へ移行する。
秦は斉のゴタゴタに各国がとらわれている機に乗じて、
広大な領域を手に入れていた。
関中から南に漢中、蜀、巴、さらに東に行って、
楚のメインエリア、湖北・湖南までを確保。
他エリアへのメインルートは、
関中から函谷関経由で東に向かうか、
湖北から北へ南陽、楚の方城を越えるか、
長江を東に下って今の武漢を越えるか、
しかなく、広大なエリアにもかかわらず、守りやすい地勢。
秦にとって絶好の情勢となる。
・前261年~前260年 秦、趙と長平の戦い
趙が大敗。秦はこれ以後趙を集中的に侵略。
・前257年趙の平原君、魏(信陵君)・楚(春申君)・斉からの救援を実現。
合従(合縦)の成立(反秦同盟)。一旦、秦は押し返される。
・前256年秦、東周を滅ぼす。
・前251年秦の昭襄王死去。
⑥秦の荘襄王年表
・前251年、
呂不韋の支援で、荘襄王即位。
・前247年秦の荘襄王死去。
⑦秦王政年表
・前247年、秦王政即位。
このころ、呂氏春秋成立。秦の正統性主張の書物である。
・前238年秦にて嫪毐(ロウアイ)の乱。呂不韋はこれに連座し失脚。
秦王政の親政が始まる。
・前230年秦、韓を滅ぼす。
・前228年秦、趙を滅ぼす。趙の公子嘉が代に逃れ、独立。
・前227年秦、燕の王都薊を攻略。
燕は遼東に逃れ生き残るが、
国としての実態はこれで滅亡。
・前225年秦、魏を滅ぼす。
・前223年秦、楚を滅ぼす。
・前222年秦、燕を滅ぼす。
・前221年秦、斉を滅ぼす。
秦による中華統一が成る。
秦王政、秦の始皇帝となる。