歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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戦国時代概説① 戦国時代は魏・斉・秦の三つの極で考える。

(年号は平勢隆郎氏の説による。

私は平勢氏の考えの方が、

歴史の流れとして理解ができるので、

これを支持する。
カッコ内の年号は通説である。

通説も諸説あるが最もメジャーなものと

思われるものにした。)

 

 

春秋時代は、

晋・斉・楚の三極を中心に時代が推移する。

 

戦国時代は、

魏・斉・秦の三つの極を中心に

200年以上の時代が流れる。

この三国がそれぞれのエリアで主導権を握り、

他エリアを圧倒した時に、

自身の時代を作る。

 

 

 

 

●戦国時代の三つの時代区分:


戦国時代は、
通説では、
前451年(前453年)から始まる。

 

実態は、
前497年に晋において、

趙氏一族の内紛に絡み、

晋の六卿が争いあったのが始まりだ。

 

これを始まりとして、

前221年の秦の始皇帝による中華統一までを

三つの時期に分けることができる。

 

まずはじめの100年が、

魏を中心とした三晋の勃興、

次の100年が

姜斉を簒奪した田斉の勃興、

最後は、

秦の興隆、中華統一、

この三つである。

 

この三つの区切りで見ると、

戦国時代がわかりやすい。

 

●戦国時代 最初は魏の時代:

 

魏の時代

魏の文侯、魏の武侯、魏の恵侯、後に恵王(実は恵成王)まで。

前342年馬陵の戦いで、時代の主導権を斉に奪われる。

これまで前442年に魏の文侯が即位してから、

100年は魏の時代である。

 

法の整備、文書行政の実施、

多才な人材の採用と、次々と成果が上がった。

この魏の全盛期を支えたのが、

李悝、呉起、西門豹、楽羊である。

 

李悝が法を整備し、

呉起は西河で秦を撃退、

西門豹は鄴の隆盛を生み出し、

楽羊は中山国を滅ぼした。

 

周王封建の諸侯として始めて、

王を称するのが魏である。

魏の恵侯の時代、前351年に夏王を称す。

 

しかしながら他の諸侯からの反発は避けられず、

決定的になったのは、

 

前342年の馬陵の戦いの敗北だ。

魏の恵成王は、斉の威王(実は威宣王)に屈服。

中原の主導権は斉に奪われる。

そして、西方の新興国秦の攻撃に、

魏は滅亡するまで

ここから100年以上悩まされることになる。

 

●戦国時代 次は斉の時代:

 

斉の時代

稷下の学士に象徴されるように、

多様な人材登用により栄華を誇る。

 

斉は実は新興国であった。

古からの姜斉は、田氏により簒奪されていた。

新しい国なのである。

しかしながら、

田氏が斉公となったが、

国内はまとまりきらなかった。

ようやく落ち着いたのが、

斉の威王(実は威宣王)の時代である。

 

威宣王は前356年に即位する。

前342年の馬陵の戦いで、

魏を屈服させ、中原における覇権を握る。

 

ここから70年間ぐらいが、戦国時代が

最も華やかな時代だ。

斉が覇権を握りながらも、

魏が行った最先端の施策を各諸侯が取り入れ、

各国が国家の体を成してくる。

 

春秋時代の都市国家連合的な国から、

中央集権的な国家が出来上がるのがこの時期である。

 

この時代に頭一つ抜けていたのが斉である。

斉と言っても、西周から続く姜斉は滅び、

田氏に乗っ取られていた。田斉である。

実態は新興国である。

これがこの改革の時代に功を奏した。

 

さまざまな改革を推し進め易かったのである。

 

さらに地政学的にも、東端であることは、

国防上有利に働いた。

オセロの角を押さえるようなものである。

西と南を注意すればいいのである。

これは日本と同じ位置関係である。

 

斉は湣王(実は湣宣王)のとき、

前286年に宋を滅ぼす。この時が田斉の絶頂期であった。

 

しかし、

これにより戦国時代各国の
バランスオブパワーが崩壊。

かつ、宋を滅ぼしたものの、

残党の抵抗が激しく統治がうまく進まなかった。

 

こうした中、

突出しつつある斉を

危険視した斉以外の6国が連衡(連横)成立。

各国が斉を攻撃。

 

燕の楽毅が斉中心部を攻め、亡国寸前まで追い込む。

 

斉の時代はこれで終わる。

 

●戦国時代 最後は秦の時代

 

秦の時代

この華北平原の動きとは別に、

関中平野を支配する秦が独自の行動を取っていた。

中原とは異なる地方なので、

長らく顧みられることがなかった。

 

これが変化するのが、前355年から始まる商鞅の変法である。

これと並行して、

秦の東方にある魏への侵攻を強化していく。

前325年に秦も王号を称す。

この時の君主が恵文王。

秦は国力を強めつつある。

 

前318年には、魏の恵成王が行った蓬沢の会と同様のことを行い、

この式典では魏と韓の王を自身の諸侯として扱う。

王なのに同格として扱わなかったということだ。

 

前316年には蜀と巴を滅ぼし勢力圏に組み込む。

 

この勢いも

斉の孟嘗君により合従(合縦)軍により、水を差される。

函谷関の戦いで秦は敗れ、関中に逼塞せざるを得なくなる。

内政に注力せざるを得ない状況に追い込まれた。

 

しかし、

上記の斉の宋征伐をきっかけとした争乱の最中、

秦は漁夫の利を得る。

 

秦は前279年から前276年にかけて、

楚の後の荊州エリアを獲得。

前278年には楚の王都郢を白起が攻略した。

これによりほかの戦国諸国に対して圧倒的有利に立つ。

 

ここからは、

圧倒的有利に立つ秦を、どうほかの6国が対抗するかの歴史である。

 

それが約50年続いたのち

6国は潰え、

秦王政が中華を統一、秦の始皇帝が誕生する。