歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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⑪石勒の中華戦記 319年11月胡漢融合を推進する石勒は趙王として自立。河北完全掌握へ

願ったり叶ったりの劉曜からの手切れで、

石勒は自立する大義名分を得た。

 

 

このあたり石勒は非常にうまい。表には出てこないが、

これが張賓の輔弼の賜物なのだろう。

319年時点での勢力図が下記である。

 

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●名実共に石勒の完全独立。趙として立つ。

 

・319年11月

石勒、再三の諸臣の申請により、

趙王を称する。

河内、魏、汲、頓丘、平原、清河、

鉅鹿、常山、中山、長楽、楽平の11郡と、

趙国、広平、陽平、章武、渤海、河間、

上党、定襄、范陽、漁陽、武邑、燕国、楽陵の13郡とを合わせて、

劉備が蜀にいて、また曹操が鄴にいて、

それぞれ王を称したことにならうとされている。

 

石勒が趙王を称した経緯は

ややこしいので説明が必要だ。

まず318年10月に劉曜は皇帝になっていた。

国号は漢であった。

しかし、319年10月に至り、国号を趙に変更した。

実効支配地は、関中、河東である。

劉曜は318年12月に石勒を趙王として封侯した。

しかし、319年3月に劉曜は石勒と断交。

石勒の趙王封侯を反故にしたのである。

しかし、石勒の方としては趙王に封じられたという事実はあり、

319年10月まで趙王を称していたのだろう。

それで、319年10月に劉曜が国号を漢から趙に変更した段階で、

石勒サイドとしてはどうするか、と言う話になった。

結構、当時は困惑したのではないか。



劉曜の帝国は、趙帝国である。

石勒は、趙王国の君主であった。


子供じみた話ではあるが、

劉曜が趙を称したのは、

石勒に対する嫌がらせだったと私は考えている。

 

これに対して、

諸臣から、石勒に対して皇帝になるよう請願があった。

九錫、王侯、執権の三条件を石勒は満たしていたので、

段階を踏まえれば、皇帝になれた。

歴史上の条件は備えていた。

しかし、建前ではなく、石勒は皇帝になることを拒否。

それは、石勒が異民族だったからである。

 

石勒は趙王と称した。

劉曜という皇帝の元でではなく、

石勒は趙王元年として自身の御代を数え始めたので、

自立ではある。

石勒はまだ皇帝にはならなかった。



●異民族は皇帝になれない、という漢人の理屈に配慮した石勒

 

趙と言う国が二つ並び立つ。

西の趙は皇帝、

東の趙は王である。

 

劉曜の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼ぶ。

ややこしい。劉趙、石趙と呼んだ方がわかりやすいと私は思う。

 

石勒も皇帝になっても良さそうなのだが、

ここはこれまでにも散々申し上げているが、

異民族は皇帝になれない、という漢人の考え方に配慮したものだ。

 

石勒は最晩年の三年間だけ皇帝だった。

劉曜を328年に滅ぼし、華北を完全掌握した。

330年2月に天王、すなわち周王と同じ号を称す。

皇帝の代行として天王を使用した。同年9月に再三の要請により、

皇帝となる。

手続きも煩雑だということもあり、

相当に本気で皇帝になることを断り続けたのだろう。

もしかしたら曹操のように皇帝にならないという

選択肢も石勒の中にはあったのかもしれない。

 

 

皇帝になると、ほかの皇帝とは前面戦争になる。

また異民族の皇帝では漢人の支持、具体的には漢人の石勒への投降を促しにくい

という現実的な判断もあったのだと思われる。

但し、319年10月の趙王としての独立に際し、

年号は趙王元年とした。

これは戦国時代の王のやり方にならったものだ。

元号に名前がつくのは前漢武帝のときに始まる。

それまでは、例えば魏の恵王は魏王元年のような形で、時を数える。

それで改元すると、また魏王元年と戻る。

そういうやり方が原初である。

石勒はこれにならった。

他国の元号に従って、

時を数えるというのは、

その皇帝の御代に生きるという意味合いが含まれている。

皇帝はこの世の全てを司る存在で、

時も掌握するのでこのような意味合いとなる。

 

石勒は確かに皇帝にはならなかったが、
自分の御代を作ることはしていた。

 

石勒は皇帝にならなくとも、

政治的な自立は元号や日時計などで対処できると判断したのである。

 

●胡漢融合策を強烈に推進した石勒

 

独立をしないという意味ではなく、やはり皇帝という存在、

つまり異民族は皇帝にはなれないという

漢人の考え方に配慮していたと私は主張する。

これを裏付けるのが、石勒の胡漢融合推進である。

石勒は胡漢融合策を強く推進した。

それは、漢人が胡人に配慮するものではなく、

異民族の胡人を、漢人に合わせるものであった。

 

胡人の禁法を厳しくする。

胡族を国族とする。

胡の横暴を取り締まった。

国人のレビラート婚を禁止。

胡という言葉自体を忌み名(タブー)とする、

などである。

 

国家体制も漢人の文化に合わせた。

 

百官を整備する。

張賓、文官の首位。朝政を取り仕切る。

石虎、軍事の首位。単于元輔。

 

なお、このタイミングで、

葛陂の戦いの生き残りに追加褒賞。葛陂が石勒自身、

ターニングポイントであったことを認識している証拠である。


・320年1月
段匹磾とその弟段文鴦が石勒の薊を攻撃。

その一方で石勒は石虎に邵続が守る厭次を包囲させ、計略により邵続を捕虜とする。

・320年6月

劉曜が保持していた洛陽金墉城が、

祖逖傘下の李矩により、東晋に奪われる。

洛陽の前趙(劉曜)勢は石勒に寝返るも、

しかし心変わりし、

石勒陣営は徒労に終わる。

洛陽の人々は、

東晋の司州刺史李矩に従って行ってしまった。

洛陽は遂に空になった。

 

・320年7月

祖逖、再度譙に入る。

中原を窺う。

祖逖は戦わずして東晋陣営に取り込むことを考え、

周囲の諸都市を慰撫する。

この祖逖の懐柔で、

石勒支配下の黄河以南が動揺。

石勒はこの祖逖の策の厄介さを認識。

石勒も祖逖の故郷幽州で祖逖の祖先の墳墓を

修復するなど、柔軟策を取る。

結果、石勒、祖逖間では瓦市(交易の市場)が起きる。

石勒が求めたが、祖逖は黙認という形で事実上許した。

 

この年、長雨で中山、常山が打撃を受ける。


・321年

張賓に九品の選定を指示。

石虎に託候部の掘咄那のいる岍北を攻撃させる。

離石攻撃させる。

鮮卑に支配されていた。

・321年3月

石虎、段匹磾と厭次で戦う。

段匹磾、段文鴦を捕らえる。

冀州、并州、幽州の完全掌握。

遼西以西の掌握。

段匹磾は、東晋の朝服を来て、符節を持った。

そのため石勒は、段匹磾、段文鴦、邵続を殺した。

 

・322年2月

石弘、世継ぎとし、

中領軍の統括とする。

泰山の徐龕を石虎に攻撃させる。

この頃東晋、王敦の乱が勃発する。324年まで続く。


7月に徐龕攻略。

東晋の兗州刺史劉遐は、

鄒山から下邳に撤退。

張賓死去。

 

・322年9月

東晋の祖逖死去。

・322年10月

河南侵攻。

襄城、城父を取る。

譙も攻撃。

 

兄祖逖の後を継いだ、

豫州刺史祖約は石勒勢の攻撃に

耐えられず、

寿春まで撤退。

石勒は陳留を取る。

これをもって梁鄭地域の完全掌握となった。

後趙、疫病発生。

三割近くの死傷率。

 

・323年3月

彭城、下邳の攻略。東晋の徐州刺史卞敦は盱眙に撤退

 

・323年4月

遼東の慕容廆(後の前燕の祖である。)と盟約を結ぼうとする。

石勒は段部を滅ぼしたのち、遼西までを支配していた。

しかし、慕容廆は使者を捕らえ石勒に敵対の意思を表明。

使者は東晋に送る。東晋の冊封を受ける。

 

・323年
ついに石虎に命じて、
青州の曹嶷討伐。
青州制圧。

東晋の陽翟を攻撃するも、破れず。

学問、農業の奨励。

各地の巡察の強化。

・324年1月

下邳、蘭陵まで侵攻。

前趙の新安を攻める。

許昌、潁川を攻める。

・325年1月

幽州北方の宇文部を冊封。

遼東の慕容廆を攻めさせる。

 

・325年3月

オルドス方面の羌族が前趙に付くと、

雁門から上郡経由で石他が攻撃。

劉曜の逆襲で、大敗。

石他は討ち取られる。

東晋の許昌が石勒に寝返る。

 

・325年4月

石瞻が鄒山攻略。

しかし、王騰が并州ごと前趙に寝返る。

 

・325年3月

石生、洛陽駐屯。

河南の東晋勢を攻撃。

これに兵糧切れが重なり、

東晋勢が前趙に降伏し救援を求める。

これを受けて、劉曜が出撃。

石生を洛陽に包囲。

石虎、援軍。

石虎、劉曜を押し返す。

 

・325年5月

石虎、劉岳を捕獲する。

并州の王騰も攻略。

これで司隷、兗州確保。

徐州・豫州の淮河に臨む諸郡県は、全て石勒に帰順

淮河線以北の確保完成。