西晋東晋過渡期の311年ー318年、下記の重要事件が起きる。
・司馬越病死⇒軍勢滅亡311年4月
・懐帝 逮捕(洛陽陥落)311年6月
・懐帝 処刑313年1月
・愍帝 逮捕(愍帝、降伏)316年11月
・愍帝 処刑317年12月
・建業の司馬睿が即位。(東晋元帝)318年3月
この世の持ち主が存在しない異常事態:
317年12月から318年3月まで
空白の三か月。皇帝が存在しない。この世の持ち主が存在しない、大変な異常事態。
僭称ではなく、禅譲・放伐などを経て、天子として即位した皇帝がいないというのは、
秦の始皇帝、この期間が初めてで、かつ清宣統帝溥儀が退位するまで唯一の期間なのである。
西晋勢力にとってこれは大変な異常事態であった。
中華思想において、皇帝が存在しないということはあり得ない。
皇帝がいないと成り立たないのである。
空白の三か月。
ここに至るまで、311年6月に懐帝が逮捕されてから、
事実上皇帝権の空白というのが、
318年3月まで続いていた。
後世の我々は、
西晋が311年から317年の間のどこかで倒れ、東晋が成立したなどという大雑把な
理解で終わりにしてしまうが、
ここがそもそもわからなくする原因だ。
当時は西晋も東晋もなく、ただ晋という王朝があるのみだった。
もっと言えば、晋はただの認識記号にすぎず、
ただ天命を受けた天子という皇帝がいるにすぎず、
晋も漢もなかった。
飼い犬に手を咬まれた中華皇帝:
ただ皇帝というたった一人の存在があり、
その皇帝がこの世のすべてを保有するという考え方だった。
この考えに服さない者はすなわち化外の者であり、可哀そうな存在だった。
ギリシアのバーバリアンに近く、軽く獣に近い扱いだっただろう。
そんな獣に、中華の民は散々荒らされた。
中華王朝が機能していないので、西晋勢力は各個ばらばらで活動している。
各個撃破のやり方で、主に石勒、少しだけ劉聡の指示を受けた劉曜が滅ぼしていった。
それが、後世に言われる永嘉の乱である。
乱というより、変だと思うが、歴史上乱と呼ぶ。
北宋の靖康の変と同様の大事件である。
靖康の変は異民族の契丹を排除しようとして、後方の異民族・金と結び、契丹を滅ぼすが、
今度は北宋が金からの攻撃を受け、華北を失陥する、皇帝は囚われるという事変である。
言い方は悪いが、飼い慣らそう、飼い慣らしていると思っていた異民族に
逆襲されたという構図は、永嘉の乱と全く同じである。
漢人からすれば、飼い犬に手を咬まれたのと同じだ。
西晋勢力は、
それぞれ各個撃破され、
愍帝処刑時に残っていたのは、
司馬睿(建業・揚州)
司馬保(涼州・天水)
陶侃(荊州)
張軌(涼州・姑臧(現在の武威))※314年に張軌死去、張寔が後を継ぐ。
であった。