歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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姚萇独立するも袋叩きに遭う~羌族の仲良し姚氏~

 

●異民族の皇帝から脱皮しつつあった苻堅

 

皇帝を殺すという大チョンボを犯した姚萇。

 

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苻堅は異民族の皇帝ではある。

しかし、異民族でありながら、中華皇帝として振る舞おうとしていたのは事実である。

 

恩徳を施そう、本当の中華皇帝たるべしとしていた

苻堅の行為は、効き目があるところにはあった。

 

異民族の中華皇帝として実態が伴いつつあったのである。

 

そのため、姚萇の皇帝殺しは、

自身を窮地に追い込んだ。

 

姚萇としては、

元々苻堅ら氐族は羌族姚氏の臣下、与力筋である。

 

父姚弋仲が氐族を管轄していた。

 

臣下筋といってもいい苻堅が皇帝など、ちゃんちゃらおかしいと考えても、

それ自体は可笑しくはない。

 

しかし理由はともあれ、

皇帝は絶対に殺してはいけないのだ。

 

皇帝自体を殺して、

余命を全うしたものはいない。

 

その理屈はわからない。

この世の持ち主、皇帝という存在を、

その皇帝という人格以上に尊崇する人たちがいるのは事実だ。

その人たちの念のようなものが、

皇帝殺しを破滅に追い込むという結末に持っていくのであろうか。

 

とにかく姚萇は、中華とは、皇帝とは、についての教養がなかった。

 

●姚萇、苻堅縊死後長安を奪取。

 

姚萇は苻堅を殺す。

 

その後、西燕が占拠していた長安を奪取。

西燕は東方が故郷の鮮卑族が主体なのに、

河北に勢力を持っていた慕容垂との断交のため、東へ戻れなかった

 

 親慕容垂、つまり東へ戻るか、

反慕容垂、つまり関中に留まるかで、

激しい内紛が続いていた。

 

 そこを姚萇は攻め、長安を奪取したのである。

 

長安を常安と改名。

 これは王莽の新の都と同じ名前である。

姚萇は、王莽を意識したのである。

 

一時は中華統一の勢いを見せた前秦苻堅の帝都を奪った

姚萇。

 

しかしながら、

姚萇ら後秦羌族姚氏の支配領域は長安周辺に限られていた。

 

●孤立する姚萇羌族姚氏集団

 

姚萇ら羌族姚氏集団は、高い結束力を誇っていた。

また異民族でありながら漢化した思想を持つ。

 

姚萇の代になると、漢化の色は少々薄まるが、

他の集団とは一線を画すような集団であった。

 

この独自性が、

後秦として独立するときに、

デメリットが顕在化する。

 

他の勢力と相いれないのである。

 

前秦苻堅のように、有象無象を全て許し受け入れるというやり方もありだろう。

鮮卑慕容部のように、身内含めて完全な実力主義で、

力のあるものこそ上に立てる、後は全て従属すべし。

これもありだろう。

 

前半期の北魏のように、異民族としての気風を重視し、

徹底的な戦闘集団と化すこれもありだろう。

 

しかしながら、

中途半端に胡漢融合し、孤高を保っていた羌族姚氏集団には、

盟友がいなかった。

 

そこに加えての前秦皇帝苻堅殺しである。

 

周辺勢力から姚萇の羌族姚氏集団は、

袋叩きにあう。

 

●前秦苻登との泥仕合

 

姚萇が苻堅を殺すと、

前秦皇帝を苻丕が継いだ。

 

苻堅の庶長子である。

 

このタイミングで、のちに皇帝になる苻登を南安王に据える。

南安は羌族姚氏の故郷であり、ここを領することで、

対姚萇を苻登が担うことになる。

 

少し苻丕の経緯について述べる。

 

苻丕は優秀であり、

苻堅存命中から河北の鄴に鎮していた。

 

旧前燕領の元締めである。

 

苻丕は淝水の戦いにも従軍したが、敗退後、鄴を守る。

そこを前秦から離反した後燕慕容垂が攻撃。

激戦を繰り広げるも衆寡敵せず、幷州の晋陽に撤退。

 

ここで姚萇による苻堅殺しの報を受け、

苻丕は皇帝として立つ。

 

ばらばらになった前秦勢力を糾合し一時は勢いを盛り返すも、

後燕慕容垂からの攻撃、圧力に負け、平陽に拠点を移す。

 

後燕慕容垂の本拠中山から、

一歩遠ざかったのである。

 

苻丕は平陽に移動して、

そのまま南の聞喜にいる西燕慕容永を攻撃。

西燕慕容永は当時後燕慕容垂に従属していた。

 

しかしながら苻丕は慕容永に返り討ちにされ、

逃亡中、ちょうど洛陽近辺を攻撃しようとしていた東晋軍に囚われ、

処刑される。

 

苻丕の死を受けて、

386年11月、苻登は皇帝につく。

 

苻登は前秦の宗族ではあるものの、かなり血統の遠い存在であった。

ここで苻堅の系統は事実上絶え、前秦といっても別の「前秦」が生まれる。

 

苻登は涼州の東側、隴右を拠点とする。

氐族は苻登のもとで、本来の異民族の性格を取り戻し、

強い軍事力を背景に勢力を伸ばす。

 

長安を本拠とする後秦姚萇と戦い、

389年には

姚萇を長安と安定の二城のみしか保持しえないほど追い詰める。

 

苻登は苻堅の像を作って軍中に置き、後秦姚萇の不当性を訴え続けていた。

大義名分のある苻登は輿望を得て勢力を保つ。

対する姚萇は苻堅殺しは兄姚襄の仇である、

神霊は姚襄の仇である苻堅を殺した姚萇を助けるべきだと像に訴えるほどであった。

 

●前秦苻登の失策。

 

しかしながら、ここで苻登は過ちを犯す。

滅羌校尉を設置したのだ。

 

言葉通り、羌族を滅ぼすという官職である。

これは非常にまずかった。

 

羌族姚氏だけではなく、すべての羌族を対象とした。

 

前秦苻堅の強みは、胡漢融合で、すべての民族を融合するところにある。

苻登は当然この苻堅の意向を継ぐものだったのに、

本来の異民族気質を持ちすぎたか、意識、無意識かは不明だが、

羌族全てを敵に回すことをしてしまったのである。

 

少なくとも、この微妙な民族対立を苻登は認識しきれていなかったのは間違いない。

 

これにより、苻登は各地の羌族の一斉蜂起を受ける。

 

前秦苻登と後秦姚萇の戦線は膠着する。

姚萇はこれで一旦息を吹き返した。

 

●姚萇の反撃、苻登の大敗。

 

とはいえ、劣勢の姚萇。

 

 

389年8月に姚萇は苻登の侵攻を受ける。

大界の戦いである。

 

ターゲットは常安(長安)の北西部にある要衝安定。

 

隴右を押さえる苻登がこの安定を手に入れると、常安への侵攻ルートが確保できる。

姚萇としては、本拠常安が丸裸になるので、何としても安定を保持しなくてはならない。

 

前秦苻登は全軍をもって総攻撃を行うも、

がら空きとなった本陣を後秦に突かれ、大敗を喫す。

苻登は5万の兵を失ったとされる。

 

これでもまだ姚萇は関中を統一するまで持っていけなかった。

後秦による関中統一は、次代の姚興まで待たなくてはならない、

 

392年から姚萇は病気がちになり、

394年に死去する。63歳であった。

 

私は、

姚萇自身は英主ではなかったと考えている。

明確な展望はなく、局地的に勢力を保つに留まった。

しかしながら、羌族姚氏の結束力、優秀な姚萇の弟たち、

そして天水の漢族たちの支援と、羌族姚氏の資産が姚萇を保たせた。

 

394年に姚萇の子、姚興が後を継ぐ。

 

 

●参考図書:

 

 

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