安禄山が中華を席巻したのち、
次に幽州が注目されるのは、唐が滅びた後の戦乱の時代、
五代十国である。
●大運河線を軸とした中華世界へ。
黄巣の乱を挟み、
最期は軍閥の朱全忠により唐は滅びる。
この時点で、既に中華の主要領域は、
大運河沿いに奪われていた。
南北の大運河線から外れていた、
関中にある、
唐の帝都長安は既に時代遅れの存在であった。
唐を滅亡させた朱全忠は開封を本拠地とする。
ここ開封は、
大運河の真ん中で西に方向を取れば洛陽、長安へと行きつく要地である。
実は伝統的にここ
開封は中華の中心、いわゆる中原である。
朱全忠により、原点回帰したとも言える。
これ以後中華の歴史は、大運河線を軸とした
南北の抗争となる。
南端は、
杭州、南京など江南、
北端は幽州、
というわかりやすい縦軸の三点の対立となる。
●中華進入ルートの燕雲十六州
この幽州にずいッと出てくるのが、
契丹族の遼である。
五代十国の、五代の三つ目後晋の石敬塘が
皇帝になるのを助けた遼はその見返りとして
燕雲十六州を割譲する。
燕雲十六州というが、
これは燕と雲というエリアのことである。
燕は、つまり幽州、
雲は、これは代である。
このエリアは長城に囲まれているエリアで異民族が
中華に侵入する防壁だった。
しかし、石敬塘はその価値を理解していなかったのか、
契丹にこれをそっくりそのまま割譲してしまったのである。
936年のことである。
これで北方異民族からみて中華が丸裸になってしまったのである。
これは中華の歴史において致命的なことであった。
中華にとってのこの幽州と代の失陥のため、
北方異民族に優位に立つことができなくなってしまった。
幽州より南は、地政学的に防御に適した拠点はなく、
幽州が北方異民族に確保されてしまうと
中華が騎兵により、
いとも簡単に蹂躙されてしまうリスクを常に抱えてしまうのである。
代はまだその南に雁門関や居庸関があるので、まだましではある。
ただ、ここは匈奴の冒頓単于以来伝統的に漠北方面からの中華進入路である。
鮮卑拓跋部もここからであり、
また後にモンゴルが中華へ侵入する足掛かりにするのは
ここ代である。
雲州=代の地政学的重要度が伺える史実である。
こうして、
燕雲十六州の失陥により、
1279年に南宋が元に滅ぼされるまで、
343年間、
中華王朝は常に北方異民族の事実上の傘下に置かれてしまった。
この936年を境目にして、
中華民族、漢民族が、異民族の下風立つほかなくなってしまうのである。
異民族の石敬塘にそこまで考えは及ばなかった。
こうして
幽州は
誰がそこを持つかで、周辺勢力図が一変するほどのエリアとなっていた。
●金元明清の都は「幽州」、もはや「幽」ではなく、「京」であった。
となれば、
この要地を本拠地にしない手はない。
女真族の金は幽州を本拠とする。
幽州を押さえられれば、
文明が爛熟している中華の大部分、
具体的には長江の以北までを一挙に
支配できるのだ。
すでにここは幽ではなく、都だった。
ここを押さえるものこそがこの中華世界を支配する。
まさに世界首都となった。
世界帝国の元もこの幽州を都とした。
世界的見地からも、
ここはシルクロードの東端であり、
大運河を通じての中華への接続点である。
いよいよ幽州が名実ともに世界首都となる。
明は江南から立ち上がった。
北の元を漠北へと追いやった。
朱元璋は江南は南京に本拠を置いたが、
元はモンゴルとして漠北に勢力を保っている。
幽州、大都、現在の北京を取られると圧倒的に不利になってしまう。
朱元璋の子で勇敢な永楽帝は、自身の本拠でもあった幽州に遷都。
最前線ではあるも、
ここを保持し続けることで、中華世界を何とか保ち続けるのである。
北京を支配するものこそが中華を支配する。
それを地で行ったのが明である。
明は北京を李自成に取られることで滅亡へと追い込まれる。
北京がなければ、
他のどこを治めても、中華王朝、中華帝国足り得なかったのである。
清は、李自成を滅ぼして北京を占拠。
ここを本拠とした。
既に満州、モンゴル、中華をまたいで支配していたが、
これらの中心が北京であった。
のちに清は、
満州、モンゴル、チベットそして中華の支配者になるが、
これらを全て支配し得るのが
中華の北京なのである。
地政学的にも、
歴史的にも、既に「幽州」北京は中華最重要の地となっていた。
ここが清が支配する四世界の支配に最もヘソの位置にあるからである。
こうして、幽州=北京は、王城の地となったのである。
●参考図書: