匈奴漢劉淵は司馬穎・司馬顒の系譜を継ぐ。
司馬越はこれらに対抗する。
この対立構図は八王の乱の初期からずっと変わっていない。
それは西晋末、五胡十六国時代にかけてずっと不変の構図となる。
司馬越は司馬冏政権における司空である。
司馬冏政権を打倒したのは、
司馬穎・司馬顒である。
司馬冏・司馬穎・司馬顒は三王起義と言って、
司馬倫を打倒した人物たちである。
司馬倫は賈后を打倒した。
賈后を打倒したと言っても、これは事実上の恵帝の打倒と言える。
恵帝は皇太子時代から賈后なくては皇太子の立場を
維持できなかった。
また恵帝は外戚の楊氏に権力を握られたが、
それを排除したのもまた賈后だった。
賈后は恵帝の権威の下に活動したのである。
賈后の動きは確実に恵帝の意向がそこにはあった。
その賈后を殺すというのはすなわち恵帝の政治的死を意味した。
司馬倫が死に体の恵帝から簒奪するのは当然の流れと言える。
●賈后派と司馬穎派:
この上記三王は当然司馬倫と対立する派閥なのだが、
派閥が異なる。
司馬穎は皇太子派、
司馬冏は賈后派である。
●●●●司馬穎と皇太子●●●●
司馬穎と皇太子は年齢も近く、出自も似通っていて、
非常に仲が良かった。そのために賈后から司馬穎は排除されたほどだ。
司馬冏は、賈后の甥である。
司馬冏の母は賈后の異母姉である。
八王の乱は賈后が楊氏を排除することから始まるが、
そこに300年皇太子との対立が絡んで、本格的な内乱が始まる。
賈后対皇太子という
枠組は、永嘉の乱で懐帝が囚われるまで続く。
永嘉の乱はそもそも賈后→司馬冏→司馬越という派閥の流れを継ぐ、
司馬越が懐帝を見限ったから起きたことだ。
懐帝が洛陽で孤立したのは、そもそも
この懐帝は、皇太子→司馬穎→司馬顒→懐帝という派閥を継いでいることによる。
両派閥は融合しようとするも、
長年の対立は遂に融合をさせなかったというわけだ。
本来ならば、
匈奴漢はこの皇太子→司馬穎→司馬顒→懐帝という派閥に
属する。皇太子派の排除の一環として、
司馬穎が鄴に出鎮した際、司馬穎が鄴に連れて行ったのが劉淵である。
しかし、匈奴漢は310年8月に劉淵が崩御してから、
完全に匈奴化していた。
漢の権威など匈奴にとっては効果はなかった。
当然ながらこの上記派閥のからも離脱し、
狩り、掠奪の対象として、洛陽の懐帝を襲い、
西晋は滅亡する。
これは、西周を滅ぼした犬戎とも似ている。
後継政権を創り得なかったからだ。
これで八王の乱の対立構図は一旦消滅するが、
のちに石勒が華北を統一する。
石勒は司馬穎派閥に属する者で、
結局五胡十六国時代というものは、
八王の乱の対立構図をずっと引っ張っているのである。
東晋は、司馬越派の残存政権である。
●●●●司馬睿●●●●
●北魏の華北統一は新しい時代の到来を感じさせるが・・・
この構図が終わるのが、
北魏による華北統一である。
北魏拓跋部は大きな歴史の流れで見ると、
西晋・東晋に与する者であった。
八王の乱では司馬騰、劉琨に積極的に従って戦った。
匈奴漢との徹底的に戦った。その褒賞として、
313年に代王に封じられているほどだ。
しかし、北魏が398年に
華北の覇者となった時には、東晋を見限っていた。
東晋は既に王朝の末期症状であり、
名目上存続しているものの、実態は劉裕のものであった。
八王の乱の、賈后対皇太子という対立構図が
終わった時が、五胡十六国時代の終焉であった。
ここから新たな南北朝時代が始まる。
いや、その後も実は続く。
北朝は皇太子派、
南朝は賈后派なのである。
南北朝は隋の楊堅の勝利に終わるが、
それは皇太子派の勝利とも言える。