曹操が鄴に本拠を置いたことは
案外と認識されない。
ゲームの影響であろう。
私も、曹操は洛陽だったり許昌だったりに本拠を置いていた誤解を長らく持っていた時期もあった。
曹丕が禅譲を受け、洛陽に都を置いたことも大きい。
しかしながら、
曹操が魏公となったのは鄴を本拠に置いていたからだ。
鄴は戦国魏の西門君(西門豹)が事実上開いた都市で、
その由来から、邯鄲の南すぐという至近距離にありながら、ここは魏郡と呼ぶ。
そこを封邑とした曹操は魏公、魏王となる。
●曹操の本拠は鄴
曹操は鄴が本拠なのである。
さて、曹操が鄴に本拠を置いたことから、
鄴の400年に渡る繁栄の歴史が始まる。
魏の曹丕も、西晋の司馬炎も、
洛陽に都を置いたが、それは漢民族王朝としての正統性を
気にしたが故の選択肢であった。
地政学上、軍事力を確実確保するための鄴の位置づけは
非常に大きく、
西晋八王の乱では鄴を押えるものが、
権力を握ると言ってもよいぐらいの状況である。
魏においては、
五都のひとつとして、
洛陽以北の要となっている。
エリアとしての首府の意味合いもありながら、
曹操以来、鄴は馬という軍事力を押さえるために最重要の地であった。
前漢、後漢の400年に渡る歴史は匈奴との抗争の歴史でもある。
匈奴が後漢の手により完全支配下に置くことができた。
それは黄巾の乱の混乱の後、一旦は後漢の手を離れたが、
次に匈奴を握ったのは曹操だった。
鄴は匈奴の根拠地幷州にアクセスしやすく、
かつ中原への移動性が高い場所にある。
●鄴に本拠を置いたのは袁紹が先
実は、この鄴―匈奴モデルを先に造っていたのは、
袁紹だった。
袁紹は、洛陽で宦官を殺戮した後、
渤海の南皮に疎開していた。
その四世三公という名門汝南袁氏の名声からか、
多数の士大夫が逃げ込んでくる。
●●●袁紹が光武帝を継ぐ●●●
後漢期において、もっとも三公を輩出したのがこの汝南袁氏であった。
(四世連続で輩出し、後漢期において6人も輩出している。)
皇帝が董卓に拉致された今、頼るのは袁紹しかないということであった。
儒教的な中華秩序が厳然と守られている事実の一つである。
皇帝がダメなら、経歴上序列一位の者に頼る。
まだまだ後漢の秩序が生きている証拠でもある。
とにかく、南皮に疎開した袁紹は、
その名声から圧倒的に有利な状況を確保。
西に向かって太行山脈沿いのエリアまで支配権とする。
メインは古の戦国趙の中原エリアである。
更に西に進み、上党を確保。
鄴を本拠とし、北の幽州に割拠する公孫瓚と対峙する。
この当時は渤海湾の海岸線がもっと内陸部に入り込んでいた。
天津の大地はこの当時はなかった。
幽州から見ると、南に強い勢力が鄴などの鄴エリアを押さえてしまうと、
中原に進出できなくなってしまう。
公孫瓚は孤立することになる。
だが、幽州の騎兵を使えるので強い。
それで激戦となるというわけだ。
袁紹は公孫瓚を滅ぼし、
流れ上、南下を目指すことになる。
袁紹本人は愚図愚図しているのでこのような言い方になる。
愚図愚図しすぎて荀彧に逃げられたほどだ。
戦国時代の燕と趙を押さえた袁紹。
一方、騎兵のイメージが強い曹操は、
兗州が挙兵の舞台である。
春秋戦国時代で言うと、
魯を中心に、衛、宋、曹などのエリアで、
ここを押さえた曹操は袁紹と決戦に臨む。
開封や鄭州から泰山までのエリアである。
肥沃な土地で、いわゆる中原である。
だが、馬がいないという軍事的には弱いエリアだった。
それを曹操は泰山を越えて、古の斉、青州を押さえて、青州兵という屈強な兵を確保。
その後、この中原において呂布や劉備と干戈を交えるのは良く知られている。
そうした激戦の中、
献帝を確保することで長安への足掛かりを掴む。
遠方で実権は及ばないが、鍾繇と接点が持てたことが曹操にとってはラッキーだった。
●鍾繇が曹操にとって極めて重要な人物であるその理由
曹操は後漢献帝の権威を活かして、後漢の枠組で、
鍾繇に長安を中心とした関中を任せた。
鍾繇は曹操への関心が高かったので、この連携はうまくいった。
鍾繇は魏の建国の元勲と言っていいほどの人物である。
鍾繇は、
長安をうまく治め切り、200年の官渡の戦いにおいて、
曹操へ馬2000頭の物資をはじめ、
援助物資を送った。
曹操は遠方でありながら、関中の旨味を確保した。
趙に対抗し得たのは、秦であり、曹操が秦の旧本拠地関中を押さえきれたのは
非常に大きい。
劉邦とも同じパターンで、
後に曹操が鍾繇のことを、蕭何のようだと最大限の賛辞を送っているのは、
それだけ、袁紹との戦いが政治的にも軍事的にも決戦だったからである。
関中がなければ曹操は確実に袁紹に勝てなかった。
曹操は袁紹との決戦に勝ち、華北を掌握。
匈奴と烏丸を支配下に置くことに成功。
華北の覇者となる。
その本拠地は鄴である。
●洛陽が本拠ではダメなのか。
洛陽は幽州から遠い。
幽州やそれ以遠の異民族エリアの事変に急行しにくい。
そもそも洛陽は盆地で守りやすいが、
他エリアに攻めにくい。
中原から見れば西端であり、中心でもない。
後漢末期において、洛陽は既に地政学的優位性は失われつつあった。
漢民族の都としての、象徴的な意味しかなくなっていた。
洛陽の重要性は後漢末で終焉しつつあったのである。
長安を本拠に置いた場合、西に行った先の中原の入口に位置していて、
便利な拠点であるが、中原を中心に考えると不便である。
後漢末期は、長安は非常に荒廃しており、
本拠地としての活用はできなかった。
●本来は鄴を中心に馬と中原を押さえれば中華統一だった。
繰り返しだが、
鄴を押えることは、馬という軍事力を押さえることになる。
本来なら、これを押さえた時点で華北平原の大部分を席巻し、
中原の覇者になるというのが、
曹操以前の歴史だった。
ほかにも関中を押さえる、幽州を押させることで馬を押さえるというパターンもあるが、
鄴が最も中原に近く、ゼロスタートならば鄴は圧倒的に優位である。
しかし、江南で勃興した孫権が割拠したことで、
中華統一にまで至らなかったというのが三国の歴史だ。
本来は南蛮の括りだった江南が孫権の割拠により、中華化してしまい、
ここを支配しないと中華統一にならなくなった。
そしてそのためには、
場所によっては川幅4㎞にも及ぶ長江を越えなくてはならない。
当然馬では無理で、船という文明の産物が必要である。
華北ではそれが必要ではない。
船を作る文明力は南方にて作らなくてはならない。
船の開発は前進中であったが、華北には伝播しなかった。
孫権の支配エリアがそれを独占したことで、
呉の割拠が成立する。
これは三国時代の成立要件の一つである。
魏を継いだ西晋司馬氏は馬という軍事力を押さえ、
何とか秦嶺山脈を越えて蜀漢を滅ぼし、上流から呉を攻めることを計画する。
荊州総督の羊祜が王濬に蜀で船を作らせる。
長江の上流というのも重要だが、
蜀の国力が実は充実していたことと、
盆地で山地に囲まれている蜀は木材が豊富だったことも大きい。
10数年の準備期間を経て、満を持して、
司馬炎は280年に呉を滅ぼし、中華を統一する。
呉や蜀では騎兵は使いにくいので、鄴の重要性は歴史の中で埋没していた。
鄴の重要性は、中原が乱れるときに復活する。
鄴は再度八王の乱において、クローズアップされるのである。