歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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北魏華北統一の成功要因は道武帝の軍事集権化と後燕の官僚組織の奪取

 

北魏華北統一の成功要因は

道武帝の軍事集権化と後燕の官僚組織の奪取

である。

 

●北魏道武帝の軍事集権化

 

道武帝は、

鮮卑拓跋氏を復興させ、北魏を建国。

若くして、華北に覇をとなえたが、

錬丹術(硫化水銀を飲むこと)で初めて死んだ皇帝である。

 

この道武帝が、

異民族ならではの

各部族ごとの軍事組織を、

皇帝直轄にした。

 

皇帝が軍を徴収し、

最高司令官として遠征する。

だから、

軍事行動のスピードが速い。

 

部族への配慮がいらないから、

意思決定も素早くできる。

 

 

●後燕の漢人官僚組織の奪取。

 

北魏道武帝は、

事実上後燕を滅ぼした。

壊滅状態まで持っていった時に、

手に入れたのが、

後燕の優秀な漢人官僚組織である。

 

異民族が華北を支配する時に

困るのは、

華北の農耕社会をどう支配するかだ。

 

現代日本に生きるわれわれには認識しにくいのだが、

例えば、

匈奴は漢に攻め入って、

漢人をさらってくる。

 

そうして何をさせるのか。

家や宮殿を建てたり、

農耕をさせるのだ。

 

彼ら、匈奴などの異民族は、

建物を建てたり、

農耕をすることは事実上できないのである。

 

後世、

モンゴルにおいては、

移動式住居である、

ゲル(パオ)に住んでいた。

これが異民族の住む北方では、

ふさわしい生活スタイルであり、

建築物を建てるという文化は育たなかった。

 

また、農耕も、

寒く、凍土になる土は耕せない。

寒冷で湿気も少ない場所では、

育つ作物が限られる。

以前は日本の東北以北では米が育たなかったことからも、

想像がつくのではないか。

 

だから、

建築も農耕も、

異民族には伝承される技術はなかった。

 

だから、

漢人をさらってきて、

北方で、

建築や農耕をさせる。

 

そういうものである。

 

北魏には、

だから、漢人の土地である、

華北を支配する能力はないのである。

 

しかし、それを持っていた後燕の漢人官僚組織を

早々に手に入れたことは大きい。

 

この官僚組織は

石勒、慕容恪、慕容垂により

連綿として、

異民族の下で華北漢人農耕エリアの

支配を行ってきた。

 

異民族慣れしているとも言える。

 

●北魏道武帝の遺産を孫の太武帝がただ継承。

 

道武帝は硫化水銀で若くてして30代で死去。

それを継ぐ、明元帝は、

江南の劉宋を、

南方に押し込むことに成功して、

これもやはり死去。

(多分やはり硫化水銀の飲み過ぎで死去)

 

祖父、父の遺産を継承した太武帝が、

華北異民族を攻撃。

 

ほかの異民族は、

異民族そのままの収奪文化しか

知らないので、

国力が増えることはない。

 

ただ、漢人を収奪の対象としてしか見ておらず、

少し物資を貯め込めば奪い、

必要に応じて奴隷として売る。

ただそれだけである。

しかし、北魏は高い軍事力を維持しながら、

漢人農耕エリアの適切な支配から、

物質、文化が向上する。

 

つまり、

食べ物はあるし、武器は強くなるし、

知識が増えるので統治手法も向上する。

 

それで北魏は、

他国を圧倒し、

439年に太武帝は、

盤石に華北を統一する。

 

●北魏の成功要因を知らなかった太武帝と孝文帝

 

しかし、

太武帝とのちに漢化政策を実行する

孝文帝の両帝は、

自分たちの成功要因を知らなかった。

 

まず、太武帝は、

祖父、父の遺産を継承しただけである。

統治者としては

それを活かしただけであった。

 

華北を統一したのち、

太武帝は、

鮮卑拓跋氏の歴史を崔浩に編纂を命じる。

 

こんなことしなければいいのに、

ある程度太武帝は

中華にかぶれ始めたのだろう。

 

異民族に歴史などない。

ただ、強者があるのみなのに、

漢文化の歴史を異民族に混ぜようとする。

 

しかし崔浩は、

漢人のなかでも紛れもない名族、清河崔氏の

一員であり、

中華思想の体現者だ。

崔浩の属する清河崔氏の祖先のひとりに、

曹操に殺された崔琰がいることから、

その硬骨漢ぶりは想像がつくだろう。

 

ここで

胡漢が衝突する。

 

崔浩は、

中華から見た歴史しか書けないので、

堂々と、

卑しい異民族としての姿を、

鮮卑拓跋氏に向けて言い放つ。

 

大体において、

漢字で書けば、

鮮卑という文字に、卑しいという文字がある時点で、

彼らは卑しいのだ。

 

ただ、それが

軍事力、武力でのし上がっただけなのだ。

儒教からすれば、

武すらもこの時代ではすでに卑しい。

 

それを知らなかった太武帝は、

怒る。

崔浩は誅殺する。

しかし、崔浩に代表される

漢人社会によって、

北魏は運営されていて、

その力で華北を制覇できたのにその認識がなかった。

 

さらにそれを促進するのが

北魏孝文帝だ。

 

孝文帝は、鮮卑拓跋氏を漢化させる。

名字すら変える。元氏にする。

 

異民族のトップクラスの8部族と、

漢人名家の4族を同格とする。

 

制服民のエリート部族が

被征服民のエリート名族が同格など、

聞いたことがない。

 

そうしてまで、

孝文帝は漢化したかった。

 

結局、中華に染まり、

自分たちは卑しいと認めたことになる

 

そうして、

かつての崔浩と同様に、

北方を嫌い、武を蔑んだ。

 

その結果

北魏の根本的な力の源泉である、

武力を放棄した。

 

漢化政策で冷遇された

北方辺境の六鎮で

反乱が起きるのは当然と言える。

 

彼らは、

本来は北魏鮮卑拓跋氏が

中華の覇者になった源泉なのだから、

漢化した北魏拓跋氏を凌駕できる。

 

早々に北魏を

破壊した、高歓と宇文泰が戦上手なのは

当然である。

 

高歓はしかしながら、漢人の強い山東が支配地域だったので

孝文帝寄りの体制を取ることになる。

漢人を優遇する。

自身も、本当は異民族なのに、

漢人の名族、渤海高氏ということになる。

 

一方、

宇文泰は、

軍事国家を維持するために、

北魏道武帝寄りの政策にする。

名字を異民族流に戻し、

軍人統治にする。(これが府兵制)

 

八柱国十六将軍という体制は、

皇帝に直属する。

さらに宇文泰の子孫の北周の君主は、

天王号を称し、

中華と距離を置く。

 

高歓の北斉に対して

圧倒的に国力の弱かった北周は、

異民族国家に戻して、

軍事国家を成立させ、

対抗していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

慕容垂亡き後の鮮卑慕容部。後燕滅亡と北燕馮氏。

 

慕容垂死後の後燕、事の顛末。後燕滅亡までの推移と北燕

 

 

 

●この項での登場人物まとめ

非常にややこしいので下記にまとめる。

慕容宝を中心にしての続柄である。

===========

慕容宝 ここでの主役。後燕二代皇帝。

慕容垂 父

慕容徳 叔父

慕容麟 弟

慕容農 弟

慕容熙 末弟

慕容盛 庶子

慕容会 子

蘭汗 慕容垂の母方の叔父 慕容盛の舅

慕容詳 遠縁の一族

慕容雲(高雲) 養子 高句麗族

============

 

●ザ異民族「慕容垂」

 

何度か書いてきているが、

鮮卑慕容部というのは、

非常に異民族らしい部族である。

 

攻撃的で弱肉強食の実力主義。

高い軍事力を誇り、

一度まとまると戦に滅法強い。

 

祖国を裏切り、

兄の子を皇帝として認めず、

軍事的才能に秀でた慕容垂はまさに、

この鮮卑慕容部の典型的な英傑であった。

 

慕容垂が、

鮮卑慕容部流の生き方を貫いた結果が

後燕の建国であり、慕容垂の死後の鮮卑慕容部の

分裂である。

 

●鮮卑慕容部の絶対王者慕容垂の死

 

395年に息子で皇太子の慕容宝が

北魏と戦い、参合陂で大敗する。(参合陂の戦い)

 

これを受けて、

翌396年に慕容垂が病をおして北魏に対して親征。

 

北魏に勝利するもその陣中で慕容垂は病が悪化。

急ぎ帝都の中山に戻ろうとするも、

途中の上谷にて崩御する。70歳であった。

 

北魏には勝利するも、決定打を与えられず、

北魏は力を温存。慕容垂の死を知り、

拓跋珪は同396年に一気に并州の大半を併合。

一方慕容垂の後継者慕容宝は、

前年の参合陂の戦いで著しく評価を落としていた。

 

鮮卑慕容部は慕容垂が体現したように

実力主義の世界である。

 

ほかの慕容垂の血統、および宗族が

弱者の慕容宝を見て何もしないなどということはありえない。

 

 

 

●典型的異民族鮮卑慕容部の弱肉強食ー肉親相争う。

 

397年3月、慕容宝は薊(今の北京)にて北魏と戦い、大敗。

 

これをきっかけに

内乱が勃発。

 

慕容宝の実子慕容会、

宗族の慕容詳、

弟の慕容麟が反乱を起こす。

 

慕容宝が北魏に負けたことで、

慕容詳が帝都中山で皇帝を僭称。

 

敗退した父慕容宝の救援に

駆けつけた慕容会だったが、

逆に軍隊を父慕容宝に奪われる。

 

慕容会は祖父慕容垂の寵愛を受けていて、

慕容垂は生前に慕容会を後継者にするように

指名していた。

 

慕容垂は子の慕容宝よりも、孫の慕容会に期待しての、

慕容宝への後継者指名であった。

 

このあたりのすれ違いが

父慕容宝と子の慕容会にあった。

 

慕容垂が死んで、慕容宝が後を継ぐと、

慕容垂の慕容会後継指名は反故にして、

末子慕容策を皇太子にしている。

 

この親子の対立は根が深かった。

 

●慕容宝から子の慕容会、慕容麟が分離独立、さらに叔父の慕容徳も。

 

慕容宝救援に来たにも関わらず

軍隊を奪い取られた慕容会はこれで

謀反を決意。

 

慕容会は父慕容宝を追って、

鮮卑慕容部の旧都、龍城まで追い詰めるが、

高句麗人の高雲の前に敗北。

 

慕容会は中山に逃げるも、

ここで慕容詳に殺害される。

 

しかし今度は397年9月に、

慕容詳が慕容麟に殺害される。

慕容麟は慕容宝の弟である。

慕容麟は慕容詳を殺害した後、

慕容詳と同じく皇帝を僭称した。

 

龍城にいる兄慕容宝に対して、

弟慕容麟は中山で皇帝となり、対立したのである。

 

しかし、慕容麟は西から迫る北魏の脅威を

真っ向から受ける。

 

慕容麟一人では北魏に対抗できず、

その姿勢を見た帝都中山の民からの支持を失い、

逃亡。

 

●慕容徳の自立(南燕)

 

慕容麟は、

南の鄴にいた慕容徳のもとに逃げ込む。

慕容徳は慕容垂の弟であり、

後燕における長老、ナンバー2である。

 

後燕、すでに一体化した国家ではなくなっていたが、

北魏に帝都中山を奪われた今、

遼西の龍城と、河北の鄴に勢力圏が別れていた。

 

やはり慕容徳一人では北魏に対抗できない。

さらに鄴は中山と陸続きで、

北魏拓跋珪が軍を差し向けたら

ひとたまりもない。

 

慕容徳は慕容麟からの建言を受け、

鄴を捨てて、南の滑台に移る。

民4万戸を連れての移動であった。

 

ここ滑台で事実上の自立。

翌398年に慕容徳は燕王を称す。

 

慕容宝からの完全自立である。

 

●強者の見栄を張りたい慕容宝、北魏に返り討ちにあう。

 

一方、慕容宝の方は、

こうした慕容徳の動きを全く知らなかった。

 

398年、慕容宝は周囲の諫言を振り切り、

北魏を攻撃するも、途上で軍兵の反乱を招き失敗。

慕容宝は

本拠龍城まで撤退して籠城。

しかし、慕容宝の弟慕容農が反乱軍に投降。

慕容農はかつて父慕容垂が前秦に仕えていた時に、

前燕の復国を度々進言した硬骨漢である。

軍事的才能も高く、慕容垂の子供の中で

頭一つ抜けていた。

この慕容農すら慕容宝を見限るとは、

後燕の混乱の程度が伺える。

 

今度は、

反乱軍の段速骨を蘭汗が攻撃して

滅ぼす。

 

蘭汗は、

慕容垂の庶子で慕容宝の庶兄にあたる、

慕容盛の舅である。

 

蘭汗の姉は、慕容垂の母であり、

慕容垂の母方の叔父にあたる。

なので、蘭汗は匈奴である。

 

蘭汗は慕容宝に戻ってくるよう使者を出すが、

もう腹は決まっていた。 

 

慕容宝の方は、

南の叔父慕容徳のところに逃げ込もうとするも、

ここでようやく慕容徳が南燕として自立したことを知る。

 

●後燕、一旦滅亡。

 

蘭汗の婿で慕容宝の庶兄慕容盛が止めるのも聞かず、

慕容宝は蘭汗のものとなった龍城に戻ろうとする。

 

だが、龍城に向かう途中で、

慕容宝は殺害される。

 

 

蘭汗は昌黎王として自立する。

特に後燕や鮮卑慕容部とは関係がないので。

これを持って後燕は一旦滅亡する。

 

蘭汗の婿慕容盛は龍城に戻る。

蘭汗は慕容盛の処遇を悩むも、

妻や慕容盛に嫁いだ娘の反対に押され、臣下として迎え入れる。

 

しかし、

これが仇となり、蘭汗は慕容盛に酒宴を狙われて殺害される。

 

●後燕の復国と南燕慕容徳の皇帝僭称。

 

 

慕容盛は皇帝となるも、

これまでの経緯もあって、猜疑心の強い治世となった。

またすでに遼東・遼西のみしか領地を持っておらず、

既に皇帝と名乗るには実態を伴わなかった。

400年1月には皇帝から、庶民天王と自ら格を下げる。

後燕ではあるものの、地方政権へと衰退した。

 

一方で、

これを見た山東省・南燕の慕容徳は

皇帝を称する。

 

=========

慕容宝 ここでの主役。後燕二代皇帝。

慕容垂 父

慕容徳 叔父

慕容麟 弟

慕容農 弟

慕容熙 末弟

慕容盛 庶子

慕容会 子

蘭汗 慕容垂の母方の叔父 慕容盛の舅

慕容詳 遠縁の一族

==========

 

●他者を信じられない慕容盛は弾圧するも殺される。

 

慕容盛は法に厳格で、猜疑心が強く、

粛清を多々行った。

本当の強者ではない証拠である。

 

このため、反乱を招き、

慕容盛は殺される。29歳であった。

 

後継者に年長者を、という声を、

慕容盛の母、丁太后は受け入れ、

慕容盛の子、慕容定ではなく、

慕容盛の叔父、慕容熙を後継者とする。

 

慕容熙は慕容垂の末子、慕容宝の末弟である。

 

●慕容熙

 

慕容熙は慕容熙で今度は

また異なった物語がある。

 

慕容熙は前秦苻堅の一族の姉妹を

寵愛。溺愛した。

自分たちが事実上滅ぼした国の君主の

娘を愛する。異民族文化である。

 

特に妹の苻訓英の方を溺愛するのだが、

この妹の方が早死にすると、

間も無く後を追うという状態であった。

 

その一方で、

臣下には冷淡で、

苛酷な政治を行った。

 

この時、

後燕からみて、北に契丹(きったん)、

東に高句麗が勢力を伸ばしてきた。

 

これに対して、

苻訓英が政治に容喙(口を出すという意味)。

406年、

契丹遠征を主張し、兵を出すも、契丹は強勢のため、

撤退しようとするも、苻訓英は認めず、

今度は高句麗を攻める。

 

戦いにならず、高句麗に敗退。

これを見て、慕容宝の養子で、慕容雲は出奔。

 

●407年、馮跋により後燕はついに滅亡。北燕の成立。

 

407年馮跋は一族の罪のために、処罰される前に下野。

馮跋は漢人で、後燕の宿敵西燕に仕えていたが、

その能力を買われて

後燕に仕えていた。

 

後に、

苻訓英が早死にし、

その葬儀のために

慕容熙が龍城から出城する。

 

これを好機と見た

馮跋は、反乱を起こし、慕容雲を天王として擁立する。

 

後に慕容熙は捕らえられ処刑される。

 

この時に、

慕容雲は、元の、高雲に名前を戻す。

 

この時が事実上の後燕の滅亡である。

407年である。

 

慕容雲は鮮卑慕容氏の血族ではなく、

さらにその慕容雲さえも馮跋に実権を握られていたので、

後燕としての実態は既になかった。

 

歴史上の分類では

この407年からを北燕と呼ぶ。

 

 

後に高雲も近衛軍から裏切られ、

409年に殺される。

 

●馮跋の天王即位。その死後、弟馮弘のときに北魏により滅亡。

 

これを受け、

馮跋が天王に即位。

409年のことである。

 

馮跋の治世は、とてもうまくいき、

遼東は安定した。

 

北魏からの圧迫もあったが、

東晋、柔然という北魏の敵対国との外交を強化。

さらに北隣の契丹とも友好関係を維持。

 

北魏に対しては、馮跋の方も、

強硬姿勢で、北魏明元帝のときに二度使者を拘束している。

 

430年に馮跋が死ぬまで勢力を維持する。

 

430年以降は馮跋の弟馮弘が後を継ぐ。

 

しかしながら、

北魏が425年にオルドスの夏を滅ぼすと、

本格的に遼東方面に手を出してきたので、

情勢が厳しくなる。

 

最後は436年に北魏に攻撃され、

滅亡。馮弘は高句麗に亡命するも

438年に馮弘は高句麗により殺害され、北燕は完全滅亡する。

 

●馮弘の孫・馮太后が北魏文成帝の皇后。

 

馮太后は、

北魏の文成帝の皇后で、

後に孝文帝の漢化政策に多大な影響を与えた。

北魏の登場人物の中でも最重要人物の一人である。

 

この馮太后だが、

上記の馮弘の孫である。

 

馮弘の次男、馮朗の子である。

 

馮弘は天王に即位すると、

后慕容氏との子を太子とした。

 

 このため、

馮弘の子の馮朗は兄の馮崇を説得して、

北魏に亡命。

 

北魏としては、

北燕の宗族(本来の正統な後継者といっていい)を

手に入れたことで、大義名分を得たことになる。

 

ここで北魏において442年に生まれたのが、

馮太后である。

 

後に馮朗は罪により処刑されたので

恵まれた環境ではなかったと思われるが、

こうした経緯で馮太后は

北魏で生まれた。

 

 

馮太后も、

敵国北魏に滅ぼされた亡国の姫君である。

これを娶ることこそが異民族の文化である。

 

晋の歴史が春秋戦国時代そのもの。

戦国時代にを語るにあたり、

春秋時代の晋という国の存在が重要である。 

 

戦国時代の後半は秦の快進撃が話の中心となるが、

その対立軸は、韓魏趙という春秋時代の晋を分けて、

自立した国との争いになるからである。

 

(韓魏趙はそうした由来から、総称して三晋と呼ばれる。)

 

晋を覇者にしたのは、

晋の文公であるが、

晋の勃興は祖父武公、父献公である。

 

================

 

元々晋は後進国であった。

 

いわゆる中原というのは、

中華における交易の中心地のことである。

 

それは黄河を南北に渡河できる地点のことを指す。

 

南北、および東西の物資が、

黄河を渡河することで交易ができる。

 

具体的な場所は、

現在の洛陽から開封までのことを指す。

 

このあたりを春秋時代に押さえていたのは、

東周、鄭、衛である。

 

しかしながら、

これらは基本的に交易都市、文化都市を持つのみで、

軍馬や武器の生産という意味で、

弱みを持つ。

 

そこで、

これらの国の東にある

魯や宋という国の影響を持つ。

 

元々、周という国は関中平野において、

軍馬の調達や武器の生産を行って軍事力を確保し、

洛陽で交易という経済活動を行う、

という構造を持っていた。

 

しかし、春秋時代の周は関中平野を失ったので、

軍事力のある国の後ろ盾が必要になった。

 

周辺諸国の連合で当初は

凌いでいたが、

そのうち北から北狄、

南から楚が勢力を伸ばし、

それだけでは対処しきれなくなってしまった。

 

そこで出てきたのが斉の桓公である。

 

 

周王朝の諸侯の中では

外縁部に位置する斉。

 

馬の産地にも近く、

近いということは馬を安く調達できる。

 

山もあるので鉱物も取れるので、

武器の生産も可能である。

 

東に東夷という夷狄がいるので、

国民は戦いに慣れている。

中原諸国よりは勇敢な民が多い。

 

そこに、

斉の桓公と管仲という

セットが生まれ、

周王朝、中原諸国の守護者となる。

中原諸国の守護者=覇者と呼ぶ。

 

しかし、これは斉の桓公の一代のみであった。

 

 

春秋五覇というが、これは戦国時代にできた概念で、

当然斉の桓公の時にはこういう概念はない。

 

周王朝の守護者は斉の桓公で

終わる話であった。

 

斉の桓公は

後継者選びで失敗し、

斉は混乱する。

 

斉は守護者の地位を世襲できなかった。

 

一方、

このころ勃興していたのが

晋である。

 

 

晋は現在の山西省を地盤とする。

中原からは、

山と河を隔てた僻地である。

 

晋のエリアには

軍馬の産地があり、高い軍事力を擁する。

合わせて、

周王朝の、

若干の都市文明の進出もあり、

中華文明への馴染み度合いもそこそこ。

 

斉の桓公の死後、

南方の楚の脅威が増していた周は、

この晋に助けを求めた。

 

これに見事に応えたのが、

晋の文公である。

===============

 

 

晋の文公の母は夷狄の出身(白狄)

 

狐偃、趙衰は狄の出身。

 

◆狐偃の墓、現状の写真(狐偃墓 百度百科から引用。)

f:id:kazutom925:20181202213244p:image

 

趙衰とは、

狄の姉妹をそれぞれ娶る。

さらに、晋の文公の娘を趙衰は娶り、

二重の姻戚関係でもある。

中華の概念からすれば、

非常に珍しい関係である。

 

狐偃と趙衰の死後、

それぞれの子供が相争い、

趙衰の子孫が勝利する。

 

 

この趙衰の子孫が、

のちの戦国時代の趙を作る。

 

●晋陽系と邯鄲系

 

趙衰の子孫は、

実は二つの系統がある。

 

のちに趙という国を建てるのは、

これは晋陽系の趙衰の子孫であった。

 

晋陽系の趙衰の子孫は、

上記でいう狄の女の子孫である。

一方、

邯鄲系の趙衰の子孫は

晋の文公の娘の子孫である。

 

当然、どちらが血統として格が上かは、

一目瞭然である。

邯鄲系は晋の文公の血筋であるのだから、

趙衰の系統としての嫡出はこちらと見て、

本来は問題がない。

 

しかし、

この晋の文公の娘は謙譲した。

 

理由はわからない。

 

趙衰の子で、

のちに晋の正卿として辣腕を振るった趙盾は

晋陽の系統である。

 

晋文公の娘は、

趙盾の才能を尊重したか。

それとも、晋陽系の趙盾一族と

対立することを避けたかったか。

 

趙盾を立てて、自らは晋のために

一歩引いた、という綺麗な話になりがちであるが、

多分に、将来を見越して争いたくなかったからではないかと

私は思う。

 

晋の文公の娘の系統、邯鄲系は、

太行山脈の東麓で黄河渡河地点に近い

邯鄲を領有して栄華を誇る。

ここはもちろん中原の一角であり、

文明度の高いいわゆる都会であった。

 

田舎の晋陽とは違う。

 

 

趙盾は当然、自らが趙衰の後を継げたことに

恩義を感じた。

晋文公の娘の系統で、

趙盾にとっては異母弟の系統を大切に扱った。

 

正卿としての趙盾は、

事実上の最高権力者として、

厳しい措置も辞さない政治を行うも、

晋の国威は趙盾の時代に大きく伸張。

(孤氏は滅ぼし、士会は秦に亡命するようにしてしまうなど、

冷徹な判断で損切りをするのが趙盾である。)

 

こののち晋の栄華が100年続くのはこの趙盾の

おかげといってもいい。

 

しかしこのような、

血も涙もない趙盾が晩年、一つの決断をする。

 

 

趙盾は、

趙氏の家督を、

趙盾自身の晋陽系ではなく、

晋文公の娘、趙盾から見れば義理の母の

系統である邯鄲系に戻すと

決断する。

 

(なお、似たようなことを

戦国時代の趙の直接の建国者、趙無恤もしている。

自身は狄の娘子で非嫡出子であった。

趙無恤には子がなかったこともあり嫡出の兄の系統に

家督を戻すものちに内乱となる。)

 

これは、

趙盾が義理の母に恩義を感じていたからであろうか。

それとも、

晋の君主を事実上形骸化させてしまったことに

対する罪滅ぼしか。

それとも晋文公に対する敬愛の念からか。

 

いずれにせよ、

私は、この趙盾の本意は、

趙盾の義理の母で晋文公の娘と同じだと思う。

 

自らの身を、子孫を守るために、

家督を邯鄲系に戻す。

これだと私は考えている。

 

そのぐらい趙盾は専権を振るっていた。

 

 

しかし、趙盾自身の後継者、

すなわち晋陽系の後継者の

趙朔は、父趙盾のような冷徹な政治家ではなかったものの、

その温和な人柄から

人望を集めていた。

 

父趙盾が冷徹であるからこそ、

力を強め、

それを継いだのが温和な趙朔なのだから、

周囲は心底安心した。

 

であれば、趙朔が力を持って、

自分たちを守ってもらったほうがいい。

 

趙家の家督は邯鄲系に移ったとはいえ、

趙盾の息子で晋陽系の趙朔の力は揺るがなかった。

 

趙朔は結局、卿の地位を継ぐことになる。

晋の法律では、一つの族からは、

ひとりの卿しか出せないことになっている。

のちにこれは形骸化するも、この当時は厳格であった。

 

このことで、

なんとか、晋文公の娘と趙盾が

抑え込んできた、

晋陽系と邯鄲系の対立が明確化するのである。

 

 

邲の戦い。

叔父で

邯鄲系の趙括は交戦を主張。

 

晋陽系の趙朔は士会とともに交戦に反対するも、

楚との戦いへ。

趙朔率いる下軍は全滅する。

 

 

 

趙朔に亡命を進める韓厥。

 

しかし趙朔は応じず、

晋の霊公の命を受けた屠岸賈によって殺される。

 

ちなみにこの屠岸賈は賈氏とされる。

賈氏の祖は、趙盾が滅ぼした狐偃の子、狐射姑。

 

趙括およびその兄の趙同は、

趙の中枢へ。

 

韓厥は趙朔の子、趙武を匿う。

韓厥は趙盾が登用した人物でもあり、

ここで趙と韓の深い関係が出来上がる。

 

 このように、

趙氏の内紛から晋国の有力大夫の内紛へ

広がる。

 

 最終的には、

この邯鄲系の趙氏は、内紛で滅亡(前583年)し、

韓厥により匿われていた趙武が登場。

 

これにより、晋の内紛は一旦収まる。

 

前575年の 焉陵の戦いで、

楚に勝ち、晋は再び覇権国へ。

 

 ●

 

前497年から

再度趙氏の内紛が起こる。

 

上記の邯鄲系の領地を継いだ

趙盾の従兄弟である趙穿系

との対立である。

 

趙穿は、

趙盾が追放されたことに憤慨し、

晋の霊公を殺した人物である。

 

父趙武の跡を受けて、

趙鞅は、衛への進出で勢力をさらに増す。

 

しかし、この邯鄲系との対立で、

趙氏は有力諸侯の中で著しく

力を落とした。

 

そこを、

中行氏(荀氏の直系。荀林父系)、范氏(士会の系統)を

滅ぼした智氏(荀氏の傍系。荀林父の弟荀首の子、荀罃の系統)

が勢力を増し、

趙氏の殲滅にかかる。

 

韓氏、魏氏は智氏に追随。

 

しかし、趙氏はこれを、

前453年に晋陽の戦いにおいて打ち破る。

 

韓魏趙は、

これを機に分離独立、

晋の実態よりも自己勢力を優先。

 

戦国時代にこれで入る。

こののちの歴史は知っての通りの

戦国時代である。

 

 

 

 

春秋五覇 覇権争い概説

 

 

 

●覇者とは中原の交易を牛耳る者

 


当時の中国大陸において、

東西南北の文物が行き交う唯一の地点が、

三国志では白馬(白馬津)と呼ばれたあたりの

エリアだ。

ここは、黄河が浅く、流れも穏やかで渡河しやすい。

 

この場所を、

はじめは、

西周(西戎)、

次は斉(東夷)、

次に楚(南蛮)、

その後は、晋(北狄)と

争い、

最後は各国それぞれが経済力を得たので、

それぞれの勢力争いとなる。

 

これが春秋時代である。

 

呉越が春秋五覇に加わったのは、

東晋の政治的プロパガンダ。

江南は古から中原諸国だったという

由来が欲しかった。

(呉は西周文王の叔父が祖ということになっている。)

 

城壁で囲まれた都市(これを国と呼ぶ)は、

交易所。これは黄河渡河点=中原を中心に、

数多く存在する。

ここに物資は保管される。

 

黄河の渡河地点とその周辺の都市、

すなわち中原を押さえた者が覇者となる。

支配の権威は周王の権威を借りる。

 

これが春秋五覇の実態である。

 

 

●王者としての西周滅亡。覇者の時代へ。

 

前771年

西周幽王、殺害される。

洛邑にて平王立ち、東周時代へと入る。

関中は携王が立つ。

 

●東周は当時の軍事大国斉を利用して秩序を回復。

 

前651年 斉の桓公(在位前685年ー前643年)、覇者となる。

北狄の討伐、

衛の内紛の差配、

各諸侯の再統合を図る。

なお、このときにのちの覇権国晋の姿はなかった。

 

●南蛮・楚という異国が中原の覇権を取る。

 

楚は王号を名乗ることからわかるように、

周などの中原国とは異文化の楚。

 

前638年

泓の戦い(おうのたたかい)

宋の襄公 対 楚の成王

覇者を目指した宋の襄公(在位 前650年ー637年)

が楚の成王(在位 前671年ー626年。楚で初めて王を称した)に敗れる。

  

●晋の重耳が帰国して覇権国へ。

 

前636年

晋の重耳が晋に帰国。晋侯となる。

いわゆる晋の文公(在位 前636年ー628年)。

 

前632年

城濮の戦い(じょうぼくのたたかい)

場所は現山東省の鄄城県。

晋の文公 対 楚の成王

晋の文公が勝利。

 

中原諸侯を席巻していた楚を中原から排除。

 

前627年 

殽の戦い(こうのたたかい)

晋の襄公 対 秦の穆公

晋の襄公が勝利。

 

晋の文公が死去したのに乗じて、秦の穆公が

晋を攻撃するも、晋の襄公は返り討ちにする。

晋の襄公が従来の白い喪服を黒くして戦った。

黒は戦いの服(戎服)。

 

●楚の逆襲。

 

前597年

邲の戦い(ひつのたたかい)。

場所は洛邑の北東、黄河北岸エリア。

 


晋 対 楚

晋は、総大将荀林父。

楚は、楚の荘王(在位 前613年ー前591年)の親征である。

これにより楚の荘王が覇権を握る。

 

●晋国内紛が落ち着き、楚の再排除。

 

覇権の奪回と言いたいが、

本来は、

 

前575年

鄢陵の戦い(えんりょうのたたかい)。

場所は新鄭の南東。

晋の厲公 対 楚の共王

晋の中軍の将(正卿)は欒書(らんしょ)。

晋の勝利。覇権を取り返す。

 

 

前525年

鄭子産、初めての成文法。

法を鼎に鋳る。

 

●南蛮国・楚の凋落と呉越戦争。

 

楚の一強だった南蛮圏が乱れる。

 

前506年

呉王闔閭(在位 前514年ー前496年)が

伍子胥のサポートを受けて、

楚を侵略。楚の王都郢を一時的に占領する。

 

前496年

欈李の戦い(すいりのたたかい)

場所は現代の浙江省嘉興市。

呉の王都姑蘇の南で、

越の王都会稽の北。

 

呉王闔閭は流れ矢を受け、

その後死亡。

 

闔閭を継いだ夫差は、

のちに越王勾践に復讐。

 

前473年

姑蘇の戦い。

今度は、越王勾践が呉王夫差に復讐。

呉は滅亡する。

 

●晋の事実上の消滅。

 

前453年

晋陽の戦い。

晋国内最大勢力の智氏が

趙氏を攻める。

しかしながら、

魏氏・韓氏が趙氏の調略により、

智氏は返り討ちに遭い、滅亡。

 

前403年に韓魏趙は晋から独立し、

晋は事実上滅亡。

 

 

 

 

足利持氏 足利成氏 南北朝から室町時代における関東の争乱

●関東の争乱は中央•室町幕府との対立から。

 

鎌倉公方足利持氏
将軍足利義持の猶子。

元々、鎌倉公方は
将軍家から離反の動き。
それに鎌倉幕府以来の
関東武士たちの独立心が結びつく。

関東管領を代々務める総上杉家は、
足利将軍家の母方の実家であることもあり、
将軍家の代官的存在として、
関東、鎌倉において、将軍の権益を代表。

関東武士の支持を集める鎌倉公方、
および足利将軍家の事実上の代官として
鎌倉公方を抑制する立場の関東管領上杉家。

この大きな対立軸が、
室町時代の関東大乱を生む。

それが勃発するのが
初代鎌倉公方足利基氏(尊氏の子)
の曾孫足利持氏の代である。

最初の事件が、
1416年の上杉禅秀の乱である。

鎌倉公方足利持氏が、
将軍家からの自立を志向する。
しかしながら、
関東管領である犬懸上杉家の上杉禅秀(氏憲)
が婚姻政策などで力を握っており、
思い通りにならない。

足利持氏としては、
上杉禅秀が煙たくなる。

1415年に上杉禅秀は関東管領職を辞任。
理由は足利持氏が、禅秀の家臣が不出社により、
禅秀の領地を没収したためであった。

翌1416年に、上杉禅秀は関東の諸勢力を糾合して反乱する。
妻の実家武田氏、娘の婚姻先、千葉氏・岩松氏・那須氏、
それ以外に小田氏、宇都宮氏などが加担した大規模な反乱であった。

しかし、
足利将軍家は鎌倉公方を救援し、
孤立して、1417年に自刃して果てる。

1419年に
上杉憲実が
越後上杉家から山内上杉家に養子に入り、
関東管領職を継ぐ。年齢10歳とされる。

この上杉憲実は、  
足利将軍家協調派であり、
主張ができる年齢になると、足利持氏と対立関係に入る。

足利持氏としては、
鎌倉時代においては、
事実上の独立勢力として自立していた鎌倉幕府のように、
自立した存在として権力を振るいたい。
一方、京都の足利将軍家としては、
すでに対立する南朝を屈服させた今となっては、
鎌倉を完全に手元に掌握したい。

この両者が対立するのは当然と言える。

1428年には足利義持が死去、
くじ引きで足利義教が跡を継ぐが、
鎌倉公方足利持氏はこれに不満を持つ。
理由としては、
足利持氏は足利義持の猶子になっており、
出家していた足利義教よりも自身の方が後を継ぐ権利があるというものであった。

このタイミングで、
足利持氏は足利将軍家と決裂する。

それでも上杉憲実は
将軍家との協調を目指すも、
足利持氏に遠ざけられる。

最終的に、1437年に上杉憲実は関東管領職を辞任。
翌1438年、足利持氏が嫡男の元服時に、
足利義久としたことに反発。

この意味合いだが、
鎌倉公方は、将軍家当主から一文字を貰い受け名乗るのが慣例となっていた。
「義」は、源氏当主の通字であり、当然源氏当主の足利将軍家に対する
反逆行為とみられてもやむを得ないこと。
さらに、この義久に足利持氏は八幡太郎を名乗らせた。
八幡太郎は、源氏中興の祖源義家の通称である。

これに反発したか、呆れたか、
上杉憲実は、
領国の上野国平井城に下向。

足利持氏としては、
この上杉憲実の行為を反逆行為とみなし、
討伐の軍をあげる。

これが1438年から1439年に渡る永享の乱である。

足利持氏は上杉憲実討伐の軍をあげる。
上杉憲実は武蔵府中で陣を構え、
足利将軍家の足利義教に救援を要請。

当然足利義教としては
上杉憲実を支援するわけで、
駿河今川、信濃小笠原、越前斯波、および上杉禅秀の遺児を含めた
幕府軍の派遣も実施。
足利持氏は劣勢となる。

劣勢となった
足利持氏は鎌倉称名寺において出家し恭順の姿勢を見せる。
上杉憲実は足利義教に足利持氏の助命を嘆願するも、
許されず、結局上杉憲実は軍を差し向け、
足利持氏を殺害する。

上杉憲実はこの行為が本意ではなかったようで、
自身および息子たちも道連れに出家する。

足利義教としてはこれを好機と見て、
実子を関東に下向させて、鎌倉公方を継がせようとすると、
下総の結城氏が足利持氏の遺児、春王丸・安王丸を擁して、反乱。

1440年に勃発、1441年に鎮圧される結城合戦である。

結城氏朝・結城持朝父子は10ヶ月耐えるも、
衆寡敵せず、最後は討ち死にする。

春王丸と安王丸は囚われ、美濃にて処刑される。
もう一人の遺児、永寿王丸は京都に送られるも、
嘉吉の乱で足利義教が横死し、難を逃れる。
(関東で匿われていたという説もある。)
京都に着くも処分が下されなかったということだ。

赤松満祐が結城合戦戦勝祝いとして足利義教を招いて
宴会を開くが、そこで義教は暗殺された。

上記のように、諸説あるが、
いずれにせよ1449年までには、
この永寿王丸、元服して
足利成氏は鎌倉公方となっている。

この鎌倉府における関東管領は、
上杉憲実の嫡男上杉憲忠が就任する。

上杉憲実およびその子息は、
上杉憲実の意向により出家するはずだったが、
上杉憲忠は家宰の長尾景仲の嘆願により思いとどまり、
結局山内上杉家を継いだ。1447年のこととされる。
この時、父の上杉憲実は上杉憲忠を義絶している。

この鎌倉府復興は、
足利義教横死を受けて、
関東武士たちの長年の復興運動の成果である。

そのために、
旧持氏派、および反持氏派が共存する形での復興となる。

足利成氏としては、
上杉憲実が父殺害を逡巡した経緯を正しく認識していたかは
わからない。
多分に近臣たちは当然、父持氏を実際に殺した上杉憲実および
上杉憲忠ら子供達を良くいうことはない。

この緊張感からか、
1450年江の島合戦が起きる。
山内上杉家家宰の長尾景仲、
扇谷上杉家家宰の太田資清が
足利成氏を襲撃する。
足利成氏は江の島に避難、旧持氏派の千葉、小田、宇都宮の諸氏の
活躍もあり、長尾・太田を退ける。

足利成氏としては、
上杉憲忠との協調を志向。
長尾・太田のみの処分を、
室町幕府管領畠山持国に要請するも、
持国は上杉憲忠の鎌倉府帰参指示は行なったが、
長尾・太田の処分は曖昧にした。

このように、
室町幕府としては鎌倉府に関しては宥和姿勢であったが、
1452年に管領が
細川勝元になると方針が転換される。
関東管領を通じて、室町幕府は鎌倉府、鎌倉公方をコントロールしようとする。
関東管領の取次がない書状は受け付けないとした。
鎌倉公方は関東管領を通さないと室町幕府と対話ができないこととなり、
関東管領の意向を気にしなければいけないわけである。
臣下筋の関東管領に気を使うなど、鎌倉公方としては面倒この上ない。

こうした経緯があって、
互いの近臣のみの対立だったのが、
鎌倉公方と関東管領自体の対立へと変化し、
1454年足利成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せ謀殺した。

これをきっかけに
28年におよぶ享徳の乱が勃発する。

ここで一旦まとめる。


足方持氏に反発した元関東管領上杉禅秀(犬懸上杉家)が乱を起こす。
(1416年の上杉禅秀の乱。)


鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実(山内上杉家)が対立、上杉憲実が勝利、足利持氏を殺害する。
(1438年から1439年の永享の乱)

1454年に、
鎌倉公方足利成氏(足利持氏の子)が関東管領上杉憲忠(上杉憲実の子)を殺害。
享徳の乱が勃発する。


基本的な、対立軸は、
鎌倉公方が反幕府、関東管領上杉家が親幕府。
これに関東の諸将が合力することで、
争いが大きくなる。

京都の室町幕府がこの関東の争乱に
介入する。
上杉禅秀の乱においては、
鎌倉公方を支持したが、
後は基本的に上杉家を支援する。

但し、のちに上杉家内部で対立をするので、
幕府の支持方針もややこしくなるが。


●上杉憲顕

 

そもそも、関東管領職に就く上杉家というのは、
足利尊氏の母方の家のことである。
つまり、外戚である。

叔父の上杉憲房は、
足利尊氏が1336年に京都から西国に逃れる際、
事実上の殿として、
四条河原で北畠顕家、新田義貞と戦い、戦死する。

この後を継いだのが上杉憲房の嫡男、
上杉憲顕である。

上杉憲顕は、
足利尊氏、足利直義にとっての従兄弟に当たる。

この上杉憲顕という人物が、
紆余曲折の末に、初めて関東管領というポジションに任じられる人物となる。

少々経緯を説明すると、
室町幕府の管領という呼び名になるのは1362年のことである。
これは斯波義将が、まだ執事と呼ばれるポジションに就く際、
父の斯波高経が執事という呼称を嫌ったためである。
斯波家というのは、
本来は足利の嫡流であったという由来を持つ家で、
それが足利本家の執事では、家来筋に成り下がると考えた。
そこで、執事ではなく、天下のことを「管領」するという意味で、
呼称が変わる。
このタイミングで、元々鎌倉府の執事というポジションが、
関東管領になったとされる。

(但し、これも諸説あり、一般的に認知されている説として
上記をご認識いただきたい。)

1362年に、
鎌倉公方の足利基氏は、当時左遷されていた
上杉憲顕を鎌倉に召喚しようとしていた。
これには、兄の将軍足利義詮も同意している。

上杉憲顕は、
1350年に勃発した観応の擾乱において、
足利直義派であり、
足利直義が没してからは、足利尊氏の怒りを買い、
左遷させられていた。

しかし、足利義詮、および足利基氏の両者がそれぞれ幼年のこと、
尊氏の名代として鎌倉に駐在していた時の補佐(鎌倉府の執事)は、
上杉憲顕であった。

このころの鎌倉府の執事は、
2名体制であった。
他は、
足利本家の執事を代々務める高氏や、足利本家に継ぐ家格を持つ
斯波氏(長男で足利家を継ぐはずだったが北条得宗家が北条家の血を継ぐ弟に
家督継承をさせたため足利家に継ぐ、というよりも別格の家格となった)、
畠山氏(足利義純という人物が畠山家を継いだため)が鎌倉府の執事に就くが、
家格はあれど、義詮や基氏との血の繋がりは薄い。

その点、上杉憲顕は、
父の従兄弟であり、大叔父の上杉憲房は父を助けるために
命を賭している。

こうした経緯があるので、
足利義詮、足利基氏兄弟は、
この上杉憲顕を信じたのであろう。

上杉憲顕は観応の擾乱で、
足利直義派であった。
鎌倉に足利直義を迎え尊氏に反抗しようとしたほどの人物である。
上杉憲顕は、
上野支配だけはうまくいって、
それを足利直義から感状を受けている。
その頃からの直義との関係である。
なお、上杉憲顕自身が上野支配を成功したことで
山内上杉家の本拠は上野となる。

上杉憲顕は足利直義を奉じて関東にて決起、
これに対して、
足利尊氏は関東へ出兵、
駿河薩埵峠で苦戦の末、
尊氏勝利(薩埵山の戦い)。こののち足利直義は急死するが、
上杉憲顕は南朝方と連携して、武蔵野合戦となるも敗れる。

上杉憲顕は命は助けられるも信濃に流罪、出家する。

足利尊氏は、
この薩埵山の戦いにおいて、戦功を挙げた
畠山、宇都宮、河越の三氏を軸に関東を支配することにした。
これを薩埵山体制と呼ぶ。

鎌倉府執事に畠山国清、
上杉憲顕が守護職を持っていた、越後・上野守護を宇都宮氏綱に、
鎌倉のある相模守護を河越直重に与える。

このタイミングで、
旧上杉憲顕の守護国である上野、越後方面を牽制する意図で、
鎌倉府の機能を入間川へ移す(入間川御陣)。
入間は河越氏のお膝元でもある。
1353年のことである。

この時、鎌倉公方の足利基氏は13歳。
ようやく政治的意思を持とうとするかしないかぐらいの年齢である。

 

●関東の対立は観応の擾乱が原点

 

足利将軍家の内部対立と、
関東の諸氏族が
結びついてややこしい。


関東の対立は、観応の擾乱に原点がある。

観応の擾乱は、
結論、それまでトップとして手腕を振るうのに
腰が引けていた足利尊氏が、
弟足利直義ではまとめきれないのを見て、
実子足利義詮に後継を任せようとして起きた争乱である。

これを意図する前までは、
足利義詮は鎌倉に駐在していたが、
これを意図した尊氏は義詮を京都に召喚。
代わりに義詮の同母弟の基氏を鎌倉に下向させている。

この時の、鎌倉執事は、
高師冬と上杉憲顕。
高師冬は、観応の擾乱を仕掛けた高師直の従兄弟で猶子である。
高師冬は直義派の上杉憲顕と対立、敗死する。

上杉憲顕は鎌倉に直義を迎え入れて、
足利尊氏と戦うも敗れる。
足利直義は急死、上杉憲顕は抗するも敗れ、追放。

この経緯の中に、鎌倉公方たる足利基氏の意思はない。
父足利尊氏が差配したものである。

鎌倉および関東は、
幼年の足利基氏を尊氏の名代としながら、
畠山国清、宇都宮氏綱が実権を握る。

これは、
足利尊氏にとってやりやすい体制である。

その尊氏は1358年に死去している。

この時点で、足利基氏は18歳、
兄で将軍の足利義詮は28歳である。

上記のような経緯なので、
足利基氏には政治的実権はない。

足利義詮は尊氏を継いだとはいえ、
この尊氏が作った薩埵山体制をコントロールできる
ほどの政治力はない。

そこで、
両者の幼年期を支えた
上杉憲顕という気概のある人物に連絡を取り、
足利基氏、そして多分に足利義詮も、
この薩埵山体制を破壊することを意図する。

それが1362年のことである。

結果として、
上杉憲顕は関東管領に就任、(ここで鎌倉執事から名前が変わる)
越後と上野の守護職となる。

なお、余談ではあるが、
ここに越後が含まれていることが重要である。
越後はここで鎌倉府管轄となったと見られている。
上杉謙信が関東に出兵するのはこうした歴史的経緯も
影響を与えている。

ややこしい話だが、
足利尊氏は、畠山や宇都宮らの関東諸氏を使って関東を支配した。
尊氏の死後、
義詮や基氏は彼らをコントロールできない。
なので、義詮・基氏兄弟は彼らを
追い落として、親戚筋の上杉憲顕をいれた。

これが室町時代から戦国時代に亘るまでの、
関東の対立軸の原点である。

こうして上杉憲顕は観応の擾乱で、
尊氏に刃向かったことを事実上帳消しとされる。

足利義詮・足利基氏の親戚筋の重鎮としての地位を
確立させる。

この上杉憲顕の系統を山内上杉家と呼ぶ。

すぐ下の弟上杉憲藤の系統が、犬懸上杉家と呼ばれる。
上杉憲藤は、父上杉憲房と共に、足利尊氏を逃がすために戦死している。

この系統に上杉禅秀がいる。
山内上杉家の弟筋であるから、関東管領も輩出するのだが、
上杉禅秀の乱で没落する。

扇谷上杉家は、
上杉憲顕の父上杉憲房の兄、
上杉重顕の系統である。
上杉氏の本来の直系である。
しかし、
上杉重顕は早世したらしい。
家督は実子の上杉朝定が継いだ。

正室に、
尊氏・直義の異母兄で本来は足利本家を継ぐはずだったが、
早世した足利高義の娘を迎えている。

しかし、
この夫妻に子はなく、
また上杉朝定は病弱で、32歳にして早死にする。

養子の上杉顕定が後を継ぐ。

この人物の時に鎌倉の扇谷(おおぎがやつ)に
居住したことで、
この系統を扇谷上杉家と呼ぶ。

なお、上杉朝定には実子朝顕がいて、
この系統を八条上杉家と呼ぶ。
これが本当の上杉直系だが、そうとは見られていない。

まとめると、
本来の上杉直系八条上杉家を継ぐ形で、
扇谷上杉家が直系となる。
しかしこの扇谷上杉家も
早世や養子などで直系としての存在が薄れる。
一方山内上杉家は、将軍足利家への忠節、功績が優れ、
そのために事実上の直系となった
というものである。

関東管領職は、
上杉諸家で継ぐものの、
山内上杉家の上杉憲顕が初代ということもあり、
山内上杉家を軸に就任していくというものである。

ほかに上杉憲顕の養弟上杉重能が宅間上杉家を建てる。
重能の父は勧修寺氏であるが、母が上杉憲房の妹で、
その縁で上杉憲房の養子となる。

このように上杉家はさまざまな系統がある。

その中で、
足利尊氏の母上杉清子の長兄の系統が扇谷上杉家、
次兄の系統が山内上杉家である。

山内上杉家の上杉憲房、上杉憲顕父子が勲功著しく、
その結果、上杉家の中心となる。
また関東管領職をメインで受け継ぐ(世襲ではないが)
ことになった。

 

 

 

北魏太武帝の華北統一戦。

北魏太武帝。

423年に15歳にして皇位を継ぐ。

  

この時点の北魏の状況だが、 

道武帝により北魏の基礎は固まり、

明元帝により華北における北魏の優位性は

すでに確固たるものとなる。

 

 

 

 

明元帝は劉宋との戦いの最中崩御したが、

太武帝は劉宋との戦いには深入りせず、

まずは華北を固めることに注力した。

 

厄介なのは北方の柔然、西方の赫連勃勃である。

 

●最も厄介な柔然撃退。

 

423年に太武帝が即位してまず手がけたのは、

モンゴル高原の柔然討伐であった。

 

もともと、モンゴル高原は、

北魏拓跋氏もその一つである鮮卑族の勢力下であった。

しかし、北魏、また前燕・後燕の慕容氏が、

南下して中華に進出すると、モンゴル高原において

柔然が力を持つ。

 

太武帝の祖父、道武帝拓跋珪、

父明元帝は柔然討伐を試みるも、屈服させることはできなかった。

 

●北魏が柔然に苦しんだ理由。

 

理由は簡単で2つある。

1つ目は、柔然と北魏は戦いの優位性が同じである。

騎兵主体で機動性と誘い込みで撃破する。

この優位性が同じなので勝敗をつけにくい。

むしろ中華勢力圏に踏み込む北魏は潜在的に漢化しつつあるので、

柔然の方が優位性が高いとも言える。

 

2つ目は、

柔然は人口が少ない割に、モンゴル高原を闊歩する。

なので、決定打を与えにくい。

 

そんな気ままな柔然は北魏が中華に進もうとすると、

後ろを突いてくる、厄介な存在であった。

これを退治しないと、華北制圧に集中ができない。

 

北魏が華北に支配圏を広げると、

柔然はその隙をついて、

モンゴル高原に勢力を広げる。

 

合わせて、北魏が中華に進出するにあたっての

後背地である北方との境界線を柔然が荒らしてくる。

 

このように非常に厄介な存在だった。

 

道武帝拓跋珪の時に、

柔然はただの一部族にすぎなかったが、

その死の間際には、柔然はモンゴル高原全体に勢力を伸ばしていた。

 

 

これを太武帝は、即位してすぐに討伐。

あしかけ5年かけて、

柔然を討伐、屈服させる。

 

 

●因縁の赫連勃勃

 

柔然に対する優勢がある程度見えた

425年。太武帝にとってラッキーなことに、

夏の英主赫連勃勃が425年に死去する。

 

夏は関中とオルドスを支配する。 

 

赫連勃勃は北魏との因縁があり、

お互いに宿敵としか言いようのない関係であった。

 

赫連勃勃の父、劉衛辰は、

北魏の祖先、拓跋什翼犍の娘を娶って力をつけた。

もともと、劉衛辰、赫連勃勃は匈奴の一族(鉄佛部)であったが、

当時は没落していた。

 

拓跋什翼犍としても、

北方異民族の名族、匈奴鉄佛部と結びつくのはメリットがあったのだろう。

 

しかし、劉衛辰はこれを恩とは感じず、

関中にあった前秦苻堅に2度裏切る。

一度は拓跋什翼犍に許されるが、

二度目の裏切りは

拓跋什翼犍率いる代(これがのちの北魏)が滅亡する

きっかけとなった。

 

拓跋氏の生き残り、

拓跋珪は劉衛辰と同じ匈奴の独孤部劉庫仁に庇護される。

 

劉庫仁は前秦において劉衛辰のライバルで、

劉庫仁としては、劉衛辰を宿敵とする拓跋珪を

匿うことは利用価値があるとかんがえたのだろう。

 

のちに苻堅が383年淝水の戦いで大敗すると、

拓跋珪が自立して代、すぐに国号を変更し魏(北魏)を建国。

 

地盤を固めると、

391年に拓跋珪は劉衛辰を滅ぼす。

その劉衛辰の子である、赫連勃勃(当時は劉勃勃)は、

関中にあった後秦に亡命するという流れになる。

 

407年後秦が事実上北魏に臣従すると、

これに赫連勃勃は反発して独立。

オルドスを地盤として夏を建国。

 

赫連勃勃が死ぬ425年までオルドスから関中まで

勢威を伸ばしていた。

 

上記の経緯から北魏も赫連勃勃も互いに、

許されざる関係であり、互いに強い勢力を持つこともあって、

互いに目障りな存在であった。

 

425年の赫連勃勃の死を好機と見た、

北魏太武帝は、426年から夏を攻撃、

長安および本拠統万を落として、

足掛け5年かけて、431年に夏を完全滅亡させる。

 

北魏はこれにより、

関中という華北主要エリアを押さえる。

またオルドスを押さえることで、

北魏の本拠平城の国防上の安全を確保。

 

また、北魏を一度は滅ぼしたきっかけを作った

夏を滅ぼしたことで。

若年の太武帝の権威を大いに高めることとなった。

 

非常に大きな意義のある勝利となった。

 

●鮮卑のライバル慕容氏残党の制圧。

 

436年に遼東の北燕を滅ぼす。

北燕は当時馮氏の王朝であったが、

慕容氏の前燕・後燕の流れを継ぐ王朝であった。

 

北燕は、鮮卑慕容氏の残党であり、

北魏鮮卑拓跋氏のライバルの残党と言える。

 

北魏太武帝はそんなことどうでもよかったであろうが、

こうして後世から歴史を見ると、

これも五胡の覇権争いのひとつの結末である。

 

ここに北魏拓跋氏が、前燕・後燕の慕容氏に完全勝利する。

395年に拓跋珪が後燕を衰退させた参合陂の戦いから41年後のことである。

 

439年に涼州の武威による、

北涼を滅ぼす。

 

これは五胡十六国時代の始まりに漢人王朝の涼という

国があったが、この流れを継ぐものである。

 

これを滅ぼして、

北魏は華北統一を成し遂げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

両統迭立に関わる天皇。

 

 

●両統迭立に関する天皇。

 

両統迭立視点での各天皇の説明。

持明院統、大覚寺統それぞれの天皇。

称号は天皇に統一する。

 

 

後鳥羽天皇:

 

才気煥発な帝王。

異母兄安徳天皇を継いで天皇になる。

本来天皇になるはずではなかった、また

三種の神器の一つ、草薙の剣なしに即位したということが、

後鳥羽天皇の正統性に疑問符をつける。

これは後鳥羽天皇のコンプレックスともなる。

武家台頭前の、強い院政を志向。

 

土御門天皇:

 

後鳥羽天皇の子で穏健派の天皇。

父後鳥羽天皇から見れば親鎌倉幕府に見え、弱腰に見える。

 

順徳天皇:

 

強い院政を志向する後鳥羽天皇の意思で、

兄土御門天皇の譲位により即位。

 

守貞親王:

 

後堀河天皇の父。

後鳥羽上皇の異母弟。

幼少期平家によって育てられ、

平家の西国逃亡の際には、

同道させられている。

承久の乱時点ではすでに出家。

子の後堀河天皇が即位すると、

守貞親王は治天の君となる。

天皇になったことがない男性の人物が、

治天の君になる初の事例。

薨去の後に、後高倉院と追号。

 

後堀河天皇:

 

守貞親王の子。

承久の乱ののちに、天皇となる。

四条天皇;

後堀河天皇の子。

12歳で崩御。遊んで転倒、脳挫傷が原因。

 

後嵯峨天皇:

 

土御門天皇の子。

土御門天皇系は後鳥羽天皇に疎まれる。

また鎌倉幕府にとっては後鳥羽天皇の系統でもあるので、

幕府からも敬遠される。

二重の意味で忘れ去られた存在。

後鳥羽天皇系以外の天皇候補がいなくなったので、

天皇に即位。

後鳥羽系の復活。

 

後深草天皇:

 

後嵯峨天皇の子。

持明院統の祖。

亀山天皇の同母兄。

後嵯峨天皇が即位4年後に譲位して天皇に即位。

後嵯峨天皇が自身の血統を皇統嫡流にするためである。

その後、後嵯峨天皇が亀山天皇を寵愛したことにより、

譲位させられる。

後鳥羽、土御門、順徳の譲位のパターンとおなじ。

 

亀山天皇:

 

後嵯峨天皇の子。

大覚寺統の祖。

後深草天皇の同母弟。

参考にだが南朝最後の天皇は後亀山天皇。

 

後宇多天皇:

 

亀山天皇の子。

亀山天皇の皇統嫡流固定策で譲位されて即位。

後嵯峨天皇→後深草と同じ。

 

伏見天皇:

 

後深草天皇の子。

父後深草天皇が幕府に訴えたことにより、

即位。持明院統の巻き返し。

 

後伏見天皇:

 

伏見天皇の子。後深草天皇の孫。

後深草天皇が自身の皇統を嫡流にするために

伏見天皇に譲位させる。

 

後二条天皇:

 

後宇多天皇の子。亀山天皇の孫。

亀山天皇が今度は幕府に訴え、

後伏見天皇の譲位を受け即位。

しかし、即位7年にして24歳で崩御。

その時点で後二条天皇には、

皇位を譲る成年の皇子はいなかった。

長子邦良親王は当時9歳。

後二条天皇即位時点で、

上皇は史上最多の5人存在。

後深草院、亀山院、後宇多院、伏見院、後伏見院。

 

花園天皇:

 

伏見天皇の子。後伏見天皇の弟。

後二条天皇の崩御を受け即位。

後宇多天皇が幕府に訴え、

後醍醐天皇へ譲位。

今上天皇も読んだ、「誡太子書」は、

のちの光厳天皇を教育するための著書。

文人として名高い。

花園天皇は、

中継ぎの天皇だったが、

量仁親王は、花園天皇の猶子として皇太子になる。

花園天皇は傍系としての天皇だったが、

こうした配慮からすると、

兄後伏見天皇との関係は良好だったと思われる。

 

 

 

後醍醐天皇:

 

後宇多天皇の子。

後二条天皇の弟。

父後宇多天皇が崩御すると、

反鎌倉幕府運動を実行する。

事実上、皇統を最終決定権を握る鎌倉幕府を

天皇として打倒して、

自分の血統を皇統嫡流にしようと目論む。

兄後二条天皇は若死に、

父後宇多天皇が崩御すれば、

自身後醍醐天皇が大覚寺統の最年長で天皇なのだから、

傍系とはいえ大覚寺統を主宰して、

自分の血統を嫡流にしたいという思いは

なんら不思議なことではない。

 

邦良親王:

 

後二条天皇の子。

後醍醐天皇の甥。1326年に26歳で若死。

当時、後醍醐天皇が正中の変に失敗。

持明院統、鎌倉幕府は後醍醐天皇に

譲位を迫る中の急死。

邦良親王は後醍醐天皇の後継天皇を

自身とすることを条件に

持明院統へ協力していた。

 

光厳天皇:

 

後伏見天皇の子。花園天皇の甥。

邦良親王の薨去を受け、

後醍醐天皇の皇太子となる。

後醍醐天皇は譲位することを頑として受けず。

後醍醐天皇が1331年の元弘の乱に失敗すると

即位。

後醍醐天皇は隠岐に流されるも、

再度反乱。

今度は成功し、鎌倉幕府滅亡。

後醍醐天皇は光厳天皇の即位自体を

完全否定する。

 

ややこしい。

同じ天皇家とはいえ、

父が異なれば赤の他人ということか。

これが高貴な身分の実態。

 

【後白河天皇から四条天皇まで】

後白河天皇ー高倉天皇ー安徳天皇

                                     |

                                       ー後鳥羽天皇

                                     |

                                      ー守貞親王ー後堀河天皇ー四条天皇

 

【後鳥羽天皇から亀山天皇】

後鳥羽天皇ー土御門天皇ー後嵯峨天皇ー後深草天皇

                   |                                        |

                    ー順徳天皇                          ー亀山天皇

 

 

【持明院統】八条院領

後深草天皇ー伏見天皇ー後伏見天皇ー光厳天皇(量仁親王)

                                     |

                                       ー花園天皇

 

【大覚寺統】長講堂領

亀山天皇ー後宇多天皇ー後二条天皇ー邦良親王

                                     |

                                       ー後醍醐天皇

 

 

両統迭立は誰のせいか。

両統迭立は誰のせいか。

 

後鳥羽上皇か、

後嵯峨天皇か、

亀山天皇か、

それとも鎌倉幕府か。

 

 

 

 

 

●後嵯峨天皇は後堀河天皇および四条天皇の血統が絶えたことにより即位できた天皇である。

 

承久の乱の結果、

後鳥羽の血統は全て皇位から排除された。

幕府としては当然である。

 

結果、後白河法皇の孫で、

後鳥羽院の同母兄である、

守貞親王の子が後堀河天皇となった。

 

その子、四条天皇は若くして崩御。

そのため、後継の天皇は、

後鳥羽院の血統から選ぶしかなくなる。

承久の乱の時に中立だった、

後鳥羽院の子、土御門天皇の子が選ばれた。

 

これが後嵯峨天皇である。

 

●後嵯峨天皇、即位後四年で譲位。

 

これは自身の血統が皇統を継ぐことを

確定させるものである。

 

元々、後嵯峨天皇は即位前、

忘れ去られていた存在だった。

 

承久の乱の結果、父、土御門天皇は土佐へ配流。

子である、のちの後嵯峨天皇は母方の叔父である土御門家で

養育される。当然臣下筋である土御門家で養育されるなど、

皇族ではないのとほぼ同じこと。さらに

この土御門家ものちに没落。

世間から忘れ去られる。

 

天皇の血筋とはいえ、

皇統嫡流から外れるとこんなものである。

これは、から恐ろしいということは覚えておきたい。

 

 

 

そこに来ての、即位である。

 

偶然な幸運。

後嵯峨天皇は正統性に欠ける自身の即位を

認識。そのため、自身の血統こそが

皇統を継ぐことを確定するには、

早々に自身の子に譲位して、

治天の君として君臨する必要がある。

 

●後深草天皇と亀山天皇は同母兄弟である。

 

母の家柄は重視されるが、

決して長子相続前提ではない。

 

結局のところ、

後嵯峨は、年長の後深草よりも年少の亀山が

可愛かったのだろう。

父後嵯峨は、治天の君として、

年長の後深草に年少の亀山への譲位を命令。

 

さらに、その後、

後嵯峨は亀山の皇太子に、

亀山の子、のちの後宇多を立てる。

 

これは、亀山の血統が皇統を継ぐと宣言しているのと

事実上の同義である。

 

しかし、後堀河や後嵯峨自身が

天皇になるにあたり、

鎌倉幕府の意思が最終決定となったので、

後嵯峨は明言を避けた。

 

なぜなら、

後嵯峨の目的は、

自身の血統が皇統を継ぐ事、

それは可愛い亀山の血統である、

この二つである。

下手に亀山が後継だと

表明する事で変に幕府に勘ぐられたくない、

というわけだ。

反幕府など痛くもない腹を探られたくない、

というわけだ。

 

後嵯峨からすれば、

父土御門天皇、祖父後鳥羽上皇のような

流罪という惨めな境遇には

確実になりたくなかった。

 

自身の幼少期に

世間から忘れ去られたという

辛い思いをしている。

 

後嵯峨は、

自身の決裁範囲である、

自己所有の荘園の相続を事細かに、

遺言しながら、

誰が、治天の君、

すなわち天皇家の家督を継いで、

誰の血統が皇統を継ぐのかは、

幕府に委ねるとして崩御した。

 

●両統迭立の流れ:8ステージ

 

①後深草⦅後深草の血統=持明院統⦆、

 

↓後嵯峨天皇の勅令

 

②亀山、後宇多⦅亀山の血統=大覚寺統。亀山と後宇多は親子⦆、

 

↓後深草上皇が幕府に自身の立場を訴え、

   自身の血統に皇統を戻す。さらに伏見天皇の子で、

   のちの後伏見天皇を皇太子にすることを幕府に認めさせる。

   1285年の霜月騒動で、排撃された安達泰盛と、

   亀山上皇が懇意にしていたことを警戒したことが大きい。

 

③伏見天皇、後伏見天皇⦅持明院統。伏見と後伏見は親子⦆、

 

↓伏見天皇の革新的な政治(といっても有為の人材を採用したなどだが)に

   反発した旧来からの公家。この公家が幕府と接近、

   後伏見の皇太子は

   大覚寺統の邦治親王(くにをおさめる、という意味。のちの後二条天皇)

   となる。

※元々、親王の諱(実名)は「仁」の字が付いたが、

両統に分かれると、持明院統はそのまま「仁」を使い、

大覚寺統は「仁」を使わなくなった。

後醍醐世代は「治」、後村上世代は「良」を使う。

中国の字のルールに近い。西晋司馬氏もこのような世代で、

字の一字に同じ文字を使う。

 

 

④後二条天皇⦅大覚寺統。後宇多の子⦆、

 

↓後二条天皇、24歳にて若死。皇太子でのちの花園天皇が即位。

 

⑤花園天皇⦅持明院統。伏見の子で後伏見の弟⦆、

 

↓今度は、大覚寺の後宇多が、

   のちの後醍醐天皇への譲位を幕府へ訴え。

   あわせて、後醍醐天皇即位ののちの皇太子は、

   後二条の子、邦良親王としたいと主張。

   ◾︎後宇多の目的は一つ。

   ・後宇多自身の血統に皇統を持っていきたい。

   この意味は二つある。

   持明院統に対抗という意味、および大覚寺統内部における後宇多系の嫡流確定。

   

   後宇多としては、自身の兄弟である恒明親王へ皇統がいくことを

   ブロックする必要があった。

   後宇多、後二条系が、皇統嫡流とすることを明確にしたい。

   しかし当時9歳だった邦良親王を天皇にすると、

   万が一後二条のように若死にするので、

   まずは成年に達した尊治親王、のちの後醍醐天皇を即位させる。

 

 

⑥後醍醐天皇⦅大覚寺統。後宇多の子で後二条の弟⦆、

 

↓後宇多系が大覚寺統の嫡流確定はできたのだろうが、

   そのための人身御供にされた「中継ぎ」天皇後醍醐は、

   父後宇多と同じ悩みを抱えることになる。

   その悩みは、父後宇多よりも深く、

   ・後宇多の命令により、後醍醐の血統は皇統になれない。

      甥邦良親王元服の際には譲位する必要がある。

      大覚寺統の天皇は結構なエゴイストで、後醍醐も多分に洩れなかった。

      後醍醐の血統が嫡流になれない。

      それは後宇多の意向を鎌倉幕府が承認したからだ、

      として、後醍醐の鎌倉幕府打倒活動が始まる。

 

⑦邦良親王⦅大覚寺統。後二条の子。後醍醐の甥⦆は後醍醐の皇太子。

だが、天皇になることはなかった。

 

⑧量仁親王⦅持明院統。後伏見の子。花園の甥⦆。

 

 

のちの光厳天皇。

後醍醐天皇が反鎌倉幕府に失敗し、

後鳥羽上皇と同様に隠岐に流された後の天皇。

 

◼︎皇統争いに巻き込まれた、受け身の鎌倉幕府

 

後鳥羽上皇という

非常に強い治天の君がいた。

 

しかし、

軍事的実力のある鎌倉幕府と対立し、

承久の乱で身の破滅を招いた。

 

その後、

鎌倉幕府は、

親鎌倉系の天皇(後堀河天皇・四条天皇)を

立てるもその血統が絶える。

 

やむなく、

後鳥羽上皇の血統でありながらも、

承久の乱で中立的立場であった

後嵯峨天皇を擁立。

 

天皇になるまで、

ただの人であった可能性が高い

後嵯峨天皇は自身を守るため、

早々に譲位して自身の血統を守る。

 

しかしそこに子への情愛も生まれ、

亀山天皇に肩入れする。

 

後嵯峨天皇の本心は

亀山天皇系を嫡流にすることだっただろうが、

幕府が怖い後嵯峨天皇は

最終決定を幕府に投げて崩御。

 

父後嵯峨天皇の崩御後、

子で亀山天皇の同母兄、後深草天皇が巻き返す。

 

鎌倉幕府も、

後鳥羽上皇以来、

朝廷との良好な関係を持つことに

深い悩みを持っていたので、

だったら親鎌倉幕府になりそうな、

後深草天皇系を支持。

 

しかし、

親鎌倉幕府出ないならば亀山天皇系でもいい。

これが鎌倉幕府の本音である。

 

89代後嵯峨天皇のあと、

96代後醍醐天皇に至るまで、

 

7人の天皇がいるが、

誰も、この両統迭立に納得しなかった。

 

その不満が爆発するのが後醍醐天皇である。

その矛先は鎌倉幕府。

 

しかし、

それは筋の通った矛先だっただろうか。

 

そもそも、

鎌倉幕府というのは、

事実上の軍閥に近い。

軍閥が東国に自治権を持っている。

 

これがグローバル基準で見たときの、

鎌倉幕府の位置付けだ。

 

しかしながら、

この軍閥・鎌倉幕府は、

天皇の皇統まで着手したくてしたわけではなかった。

 

承久の乱も、

後鳥羽上皇が仕掛けてきた戦いであり、

事実上の自滅である。

 

鎌倉幕府といっても、

一枚岩ではなく、

内部抗争は非常に激しい。

 

東国という世界で動いている。

 

正直、西国は天皇の荘園も多く、

別世界である。

 

天皇は

鎌倉幕府という存在、

すなわち、軍事権の委任、東国の自治権、

を認めて、支持してくれれば誰でもよかった。

 

これが本音。

 

鎌倉幕府はそれどころじゃなかった。

ちょうど元寇が重なっていたのだから。

 

  

 

 

15歳にして後を継いだ北魏太武帝は決して若くはない。

北魏太武帝。 

 

北魏といえば、

この皇帝が華北を統一し、

孝文帝の時に漢化、

その後内部分裂をして崩壊した、

というのが最も知られたストーリーで、

簡潔な説明だと私は思う。

 

しかしながら、

太武帝自身の能力はもちろんありながらも、

北魏としての基礎は、

祖父道武帝拓跋珪により確立されていた。

 

●北魏、道武帝・明元帝・太武帝三代にわたる華北取り

 

太武帝自身は祖父や父明元帝の英傑としての

才能を色濃く受け継ぎながらも、

北魏としての対外情勢は、

祖父、父により地ならしされていた。

 

祖父道武帝拓跋珪は、

華北の異民族ライバルを軒並み駆逐していた。

父明元帝は志半ばであったものの、

南朝の劉宋との戦いにより、

黄河線は完全確保。

南からの脅威を排除することに成功。

父の急死

(423年に31歳で死去。私はこの急死も錬丹術によるものと疑っている。)

により、

15歳で北魏皇帝となった太武帝の前には、

大した敵は残っていなかった。

北魏の皇帝は若くして後を継ぐ事が多い。

さらに早死にする皇帝も多い。

 

これは南朝の皇帝がよく狂う事が多いことと相まって、

考えると、

東晋の末に開発された、錬丹術の影響が多いと

私は考えている。

 

これは別項で述べたいと思うが、

太武帝は祖父、父の早死にで、

この錬丹術という最新の高度医療が怪しいと気づいていたのではないかと

私は考えている。

 

彼の最後は宦官に殺されるが早死にではない。

 

●太武帝の15歳が「若い」は中華視点。

 

○さて、

太武帝は15歳で皇帝となったわけだが、

これを若いと見るのかどうか。

北魏の皇帝たちは

父が早死にするのでどうしても若くして後を継ぐ。

 

しかし結論として、

これは若くはない。妥当と見ることもできる。

私も初めは若いな、と感じた。

しかしそれは中華視点からの感じ方である。

 

●中華視点の成人20歳は勉強のため。

 

そもそも、中華における、

儒教の考えで貴族は20歳で成人する。

諸々の都合で18歳になったりするが、

儒教上は20歳だ。

 

九品官人法により、家格により、

極官(最高でここまでの官位まで出世できるということ)が

事実上決まってからは、

成人して初めての官職はどの位になるかも決まっていた。

 

それに備えて漢籍を勉強するのである。

漢籍を知らないと行政ができないからである。

 

例えば上長からの諮問に対しては、

漢籍にある慣例を引っ張って回答するので、

知らないと仕事にならない。

 

もちろん貴族なので知らなくても、

立場が成り立つ人物も当然いるが。

 

漢籍の勉強というのは事実上の丸暗記である。

特に古代漢語には文法もなく、(岡田英弘氏の説)

古代漢語の言葉の用法に則って、

文章を作る。

 

理屈ではなく、まずは丸暗記なのだ。

 

少々この流れで行くと語弊があるが、

我々の感覚からすると、

これは受験勉強に近い。

 

20歳に至るまで、

ひたすら漢籍の受験勉強をするのである。

暗唱などをして、覚える。

これがパーフェクトにできると、尊敬される。

 

そうした歴史的エピソードは

よく出てくる。

 

この視点からすれば、

15歳での皇帝即位は間違いなく若い。

特に時系列で見ると、

例えば後漢の皇帝は三代皇帝章帝の後は、まともな年齢で

即位できず、外戚・宦官の専横を招いたという

明白な歴史があるので、どうしても皇帝が若いとよくないと考えてしまう。

 

●異民族の成人はやんちゃ盛りの15歳。

 

しかし北魏は異民族王朝である。

 

初代皇帝道武帝拓跋珪により、

北方に軸足を置き、軍事力を含む強い皇帝集権を持つ国である。

 

制度上、皇帝は国全体の兵の総指揮官であり、

行政よりも軍事に重きを置いた軍事国家である。

 

文よりも武に重きを置く。

 

その際、何をもって皇帝に相応しいと考えるか。

騎馬を操り、集団で戦いができること。

それに耐えうる健康な肉体を持つこと。

である。

 

北方異民族は子供の頃から

馬に親しむ。

 

馬とともに遊んで狩りをして生活を営む力を身につける。

 

仲間とともに

獣を追いかけ、狩猟をする。

 

この力を身につけ、

人間とも戦う知恵を体得する。

 

それにふさわしいのは20歳を待つ必要はない。

 

●日本の元服(戦国時代)は大体15歳まで

 

よくよく考えてみれば、

日本において、戦国時代の元服は、

大体13歳から15歳である。

例えば、織田信長は

12歳で元服している。

1534年生まれ、1546年に元服。

※なお、数え年ではこれは13歳。

 

しかし現代の感覚では12歳。

私は定義をしたいのではなく、歴史を限りなく

体感したいので、今の感覚で年齢を捉えている。

 

織田信長は翌1546年に13歳で初陣。

馬に乗って、人を一人は殺めたであろう。

 

別段これは若いとは言われない。

馬に乗ることもでき、実戦にも参加できるのだから、

良いということになる。

さらに君主一家として、特に後継者として重要なのは、

生殖能力だと私は思う。

男性の13歳であれば、

生殖能力は十分にあるので、

元服に相応しいとなるのは私は当然だと思う。

 

織田信長は1548年ごろ、

すなわち14歳で斎藤道三の娘、濃姫を

娶る。


ということで、

15歳で北魏皇帝となった太武帝は決して若くして

継いだとは、言えない。

 

中華の視点で見過ぎ、ということになる。

むしろ、太武帝は結果として英主だったのだから、

父という重しがいない方が思う存分、

その能力を発揮できたとも言える。

 

五胡の覇者が北魏439年

 

北魏の華北統一というが、

それよりも

北魏が五胡の覇者となったことの方が

歴史的意義は圧倒的に高い。

 

 

北魏の太武帝が、

五胡十六国時代を終焉させたのである。

 

●八王の乱の結果は五胡の台頭。

 

290年の八王の乱に始まり、

永嘉の乱で滅亡する西晋。

 

その後を五胡十六国時代と呼ぶ。

劉淵の304年の自立から五胡十六国時代と呼ぶケースもあるが、

わかりやすい区切りは、

西晋の事実上の滅亡313年であろう。

 

●●●西晋はいつ滅んだか。

 

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この際の西晋の滅亡理由は、

激しい宗族同士の争いにある。

 

この争いに、異民族勢力を巻き込んだことで、

じきに西晋が異民族勢力に乗っ取られた。

これが西晋の滅亡理由である。

 

その後は、

西晋勢力圏に入り込んだ、

各異民族が争いあう。

 

劉淵、

劉曜、

石勒、

姚弋仲、

苻堅、

慕容恪、

慕容垂、

拓跋珪。

 

ざっと上記の異民族首領の面々が

百数十年に渡って、

華北支配を巡って争う。

 

途中、

東晋の桓温がこの華北争奪戦に割って入るが、

これ以外に漢民族が入ることは基本的にない。

 

石勒が華北支配に王手をかけるも、

寿命のため頓挫。

苻堅は華北を支配するも、

淝水の戦いで東晋に足をすくわれる。

この後、

鮮卑拓跋氏勢力を復興させた北魏拓跋珪が、

後燕慕容垂との華北争奪に競り勝ち、

華北支配に関して優位に立つ。

 

皇帝集権を確立し強い軍事国家へと変貌した、

拓跋珪の北魏。

拓跋珪は華北を席巻するほどの

勢いを持ちながら、早死にする。

それは道教の錬丹術によるものであった。

●●●錬丹術

 

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若く、気力体力が充実した英主道武帝拓跋珪の

早死には確かに大きな損失だったが、

国家の存続という意味では功を奏した。

 

拓跋珪が作った北魏の皇帝集権が、

拓跋珪個人の力によるものではなく、

北魏という国家に帰属するものになる。

 

それは、

拓跋珪に続く、

明元帝、そして太武帝という両名君が

登場したという幸運も寄与する。

 

明元帝、太武帝が

道武帝拓跋系と同等、

もしくはそれ以上に

北魏を率いて、勢力を拡大した。

 

道武帝拓跋珪の時点で、

ほぼ華北は押さえていた。

 

これに明元帝、太武帝とうまく

政権継承することで、

むしろ、皇帝ではなく

国家としての組織体制が固まる。

 

じわりじわりと、

華北の諸勢力および南朝の攻勢を抑え、

最終的に

華北の統一を成し遂げる。

華北の統一は中国史としては、

一つの通過地点である。

 

しかし、八王の乱以後、

異民族が華北で争ってきたその最終結果が、

鮮卑の北魏が最終勝利を迎えたということは

非常に大きな意義を持つ。

 

これ以後、

モンゴルの登場まで、

中華に異民族は根付かなくなる。

また、

鮮卑は、

北魏孝文帝の漢化政策、

隋唐の漢族同化を経て、

新しい漢民族となる。

 

古い漢民族を事実上、

滅ぼしての新しい漢民族としての鮮卑族が、

これ以後の中国史における漢民族なのだから、

北魏が華北を統一したことよりも、

異民族の争いに鮮卑が勝ち残ったことの方が、

大変重要な意味を持つのである。

 

 

 

 

 

 

 

中国は黄河・淮水・長江の三つの線で分断される。

南北に分かれて黄河・淮水・長江を取り合うのが、中華統一戦争である。

 

 

●中華統一戦争、三つの陣取り合戦

 

中華統一戦争を行う。 

 

その時にポイントとなるのが、

三つの河をどうやって乗り越えるか、である。

 

非常に簡略化して考えてみる。

 

北の本陣地を北京、

南の本陣地を南京、とする。

その間にあるのが、

北から黄河、淮水、長江である。

簡単に言えば、

南北どちらかの陣営がこの三つの河を掌握してしまえば、

勝ちなのである。

 

⬛️北京⬛️

 

==黄河==

 

==淮水==

 

==長江==

 

⬛️南京⬛️

 

北京の北には険しい山脈がある。

南京の南にも険しい山脈がある。

 

両都市とも、

広大な華北平原において、

南北の端にポジショニングしている。

 

北京陣営は黄河、

南京陣営は長江を抑えて、

初めて政権が成り立つ。

 

そして両陣営は、

黄河と長江の間を

巡って争い合う。

 

これが五胡十六国後期、北魏が登場した後の

南北の争いの構図である。

 

北魏の帝都は、

平城で、北京よりもさらに北西に山を越えたところにあるが、

大雑把な概観は上記のイメージで問題ない。

 

南は南京としたが、

当時の名称は建康である。

現代におけるこの長江の南と書いて、

江南の中心地は上海だが、

当時はまだ海の中、もしくは湿地帯である。

 

●黄河の押さえ方

 

黄河は、

場所によって激しい急流の場所もあれば、

緩やかな流れのところがある。

 

急流は渡河できないので、

緩やかな流れのところを狙いたいところだ。

 

しかし、

その場所は洪水多発地帯である。

 

都市が拡散していて、

湿地のため移動もままならない。

 

場所が限定されるのが

黄河の難しさだ。

 

出兵するにも季節を選ぶ。

 

孟津、白馬津、滑台、滎陽、

これらは渡河地点だったり、渡河地点を押さえるための

重要都市の名前である。

歴史上頻出する。

 

●長江のおさえ方

 

淮水の前に先に

長江から説明したい。

 

長江は結論から言うと、

舟なしに渡河するのは事実上難しい。

 

黄河のように流れに変化はあまりなく、

大きな海のようだ。

 

我々日本人にとって感覚的に近いのは、

瀬戸内海ではないだろうか。

 

河として見ようと思えば見える瀬戸内海。

 

あのぐらいの規模の河が長江である。

 

長江の場合、

蜀、今の四川省から湖南省に流れるとき、

結構な標高差を下った後

平野にたどり着く。

 

そこで洪水が頻発する。

湖北省、湖南省は地図で見るとわかるが、

大小沢山の湖沼が多いのはそのためだ。

 

武漢周辺には本当に沢山の

湖沼がある。

 

内陸でありながら湿地帯であることがわかる。

 

これらを掌握するのに船があれば非常にラクである。

 

江南には馬はいないが、

長江を中心として、湖沼を繋ぎ合わせれば、

舟で縦横無尽に移動ができる。

 

南方の人たちに舟は非常に身近なものだが、

北来の人たちからすれば、

全く未知のものである。

 

黄河周辺は湖沼などそもそもない。

 

舟は役に立たない。

 

このように文化背景が全く異なってくる。

 

このような事情で、。

長江を確保するには、

どうしても舟が必要になってくる。

 

日々の生活が水と関わっている以上、

どうしても、舟が必須となる。

 

長江を南にわたるにも舟がなければ事実上不可能である。

 

逆に言えば舟を押さえれば、

長江含めた江南は全て確保ができる。

 

長江の肝は舟なのである。

 

●淮水のおさえ方

 

淮水。

これだけは黄河と長江とは少し勝手が違う。

 

淮水といっても、

その河だけを指すのではなく、

淮水に注ぎ込む沢山の河川を含んだ意味合いだ。

 

淮水流域といった方が本来は正しい。

 

淮水は東に向かって、東シナ海に注ぎ込む。

この淮水に向かって、

大小様々な河川が注ぎ込んでいく。

 

魚の背骨に向かって、骨があるように、

この淮水流域が広がっている。

 

この淮水流域をたどって行けば、

洛陽にもたどり着くことができる。

 

真っ直ぐには行けないが、

水路をたどっていくのである。

 

淮水のこの水系は

複雑な地形である。

 

また黄河や長江と異なり、

淮水流域地域の大半は、

馬でも舟でも移動が可能だ。

 

だから南北の争奪戦が淮水で繰り広げられやすい。

 

●大運河の完成がこの3エリアを融合させた。

 

この淮水流域を

整備して、

長江から黄河まで繋げたのが、

隋の文帝楊堅・煬帝楊広が作った大運河である。

 

しかし、

それ以前にも、部分的には運河や整備された水路はあった。

 

それらを南北統一をした隋が、

一つに貫いた。

 

それが大運河である。

 

これにより、

各3エリアが完全分離できなくなった。

 

それにより、

各エリアによって、分離独立ができなくなった。

隋以降の中国史は、

大半が中華大陸とそれ以外、

の対立軸になるのはそうした理由である。

 

いわゆるチャイナプロパーと呼ばれる中国本土は、

隋の煬帝により完全融合されたのである。

 

 

413年倭の五王の始まり。

劉裕の義熙土断。413年。

この同じ年に、

我が日本史において重要なことが起きる。

 

 

 413年東晋に対して、

倭が朝貢する。

 

これは劉裕の北伐の成果である。

 

劉裕は二度、北伐を行っている。

410年と417年。

それぞれ、南燕、後秦を滅ぼしている。

間に、413年西に攻めて後蜀を滅ぼしている。

これは西なので北伐としては二回。

 

そのはじめの一回目。

劉裕が山東省にあった南燕を滅ぼしたことが

非常に重要であった。

 

●倭が島伝いに山東省に来れるようになった。

 

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遣唐使のルート ウィキペディアから引用。

日本にあった倭。

倭から中国大陸に渡るには、

北九州から出て、

島伝いに朝鮮半島を北に上り、

途中で西へと進路を変えて、

山東半島に辿り着く。

 

これが最もベストなルートであった。

 

上記の地図のように、

中期・後期の遣唐使は外洋を

真西に渡るわけだが、

遭難が多かった。

鑑真が度々遭難にあった話は有名であるが、

外洋を

突っ切ったからであった。

 

本来は、

北九州から、壱岐、対馬、朝鮮半島、山東半島と

島伝い、陸地に沿って行くのが最も安全である。

今のような造船技術はなく、

海岸線を伝うのが当然の時代であった。

 

西晋が破綻したのち、

華北は異民族が支配していた。

山東半島も同様であった。

倭が辿り着ける山東半島が

異民族支配下にある限り、

中華王朝に接続できないでいた。

 

それが、

410年劉裕の第一次北伐で南燕を滅ぼし、

山東半島を奪取。

3年後の413年、倭の朝貢となった。

 

禅譲を狙う劉裕にとって

倭という異民族が朝貢に来るというのは

非常に大きな意味がある。

 

異民族がはるばる来るというのは、

時の権力者の徳を慕ってきたという考え方をする。

 

三国時代の魏において、

曹真が西域の朝貢に成功したのは権威の向上に寄与した。

これに対抗する形で、

司馬懿は遼東の公孫淵を滅ぼして、

やはり倭の卑弥呼の朝貢を達成。権威の向上にやはり寄与する。

 

 

 

 

●劉裕北伐・禅譲と、倭の五王の不思議な関係。

 

当時の東晋の徳を慕って、

夷狄が朝貢してきたということである。

 

これをもたらしたのは、

南燕の北伐を成功させた、

劉裕の功績であった。

 

上記のように、

魏の曹叡のような強い皇帝のもとであれば、

曹真、司馬懿が夷狄を朝貢させても、

ただ皇帝の威徳が強まるのみ。

だが、

劉裕の時代は、

東晋皇帝は事実上有名無実の存在であった。

 

これはすなわち、

劉裕の禅譲への道が開かれるきっかけとなった。

 

劉裕の北伐が、

日本史における倭の五王を現代まで歴史に残したが、

劉裕にとっては、

倭の五王のおかげで、

禅譲への道を切り開くことができたと言える。

 

一方、

倭の五王からすれば、

国内をまとめたとも言えるが、

一方で、

東晋との国交を開くことで、

倭の五王たちの権威づけができたと言える。

 

この倭の五王がのちの天皇家である。

 

明確に、

天皇の存在が確認されているのは、

この倭の五王(最後の王が雄略天皇。)

であるから、

この東晋との国交は、

倭にとっても非常に重要な意味を持った。

 

 

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北魏太武帝の廟号、世祖の意味。

 

いよいよ五胡十六国時代を終焉させた

北魏の太武帝拓跋燾(たくばつとう)の話に移る。

 

 

太武帝の廟号は、

世祖である。

 

これは大きな意味がある。

 

●「世」の意味。

 

太武帝に至るまでの世祖というのは、

 

世祖光武帝劉秀。

世祖武帝司馬炎。

世祖宣昭帝苻堅。

世祖成武帝慕容垂。

 

上記四人の皇帝である。

 

いずれも英雄である。

 

このうち三人に同じ字が含まれている。

「武」である。太武帝にもある。

 

実はあまり知られていないが、

これらは全て、前漢武帝に倣って、

廟号を付けているのである。

 

前漢の武帝は、

「世宗武帝劉徹」

である。

世祖ではないが、

世宗である。

 

同じ王朝では、

同じ廟号というのは付けられない。

廟号というのは、祖先を祀る宗廟というところに

祀るための「号」、つまり名前である。

 

だから同じには付けられない。

区別がつかなくなるからだ。

 

漢王朝(前漢・後漢を含む)の場合には、

光武帝の時点で、

すでに世宗は武帝に使われていた。

 

しかし、武帝に並ぶということで、

後漢を開いた、漢を復興させた、

劉秀を、「世」祖(廟号)「光」武帝(諡号)

とした。

 

この劉秀の例に倣って、

司馬炎、慕容垂は、廟号、諡号を付けられた。

なお苻堅も本来は「武帝」となるべきであったが、

淝水の戦いの大敗の後、

事実上国を滅ぼしてしまったので、

武帝足り得なかった。

 

●「武」の意味

 

武というと、武力行使などと言って、

攻撃を意味することが多い。

 

しかしその本来意味するところは、

「戈を止める」である。

 

この意味するところは、「平和」である。

 

「戈」という字と、

「止」という字を合わせて、

「武」と書く。

 

「戈」は「か」と読み、

「両刃の剣に長い柄をつけた大昔の武器」(googleから引用)

のことを指す。

戈をおさめる(戦いを止める)、という故事成語もある。

 

つまり、武には、平和になった、という

現代では想像しにくい意味があり、これが原語の意味なのである。

 

武帝というのは、平和をもたらした皇帝という意味になる。

 

武帝というと、武力行使をした荒々しい皇帝という意味に思える。

そういう部分もあるのは事実だが、

本義は平和をもたらした、という意味であることを強調したい。

 

なお、清の康熙帝の、「康熙」も平和という意味である。

上記の皇帝たちと王朝内での立ち位置、評価は同じであり、

平和をもたらした最上位の皇帝である。

 

●我が子孫だけが後を継ぐ、「世祖」。

 

廟号の方に話を移す。

 

太武帝は「世祖」である。

 

「世」の意味だが、

「生滅の起こる場所。人間が社会生活を営んでいる場所。よのなか。よ」

(googleから引用)

である。

 

つまり、世というのは、人間社会全体のことを指し、

この祖、つまり、それを生み出した大元の人物、というのが

「世祖」となる。

 

少し意訳すると、

新しい時代を創り出した人物と言える。

 

前漢武帝、後漢光武帝、

西晋司馬炎、苻堅、慕容垂

といずれも新しい時代をもたらした人物、と言える。

 

前漢武帝と苻堅は注釈すると、

まず前漢武帝は、

いわゆるチャイナプロパーを統一した。

 

前漢高祖は確かに、項羽を打倒し、

中華を統一したが、

江南や山東は、王を置くのみで、

実際の支配権は確立していなかった。

 

それが完全支配となるが武帝の時代で、

ここから本来の中華完全征服王朝としての漢王朝が始まる。

 

そうした意味で、

武帝は上記の意味での「武帝」であり、

新たな世の中の創造主としての「世宗」と言える。

 

●非嫡流の苻堅が皇帝となる。

 

前秦の苻堅なのだが、

彼はあまり知られていない事実がある。

これも調べればすぐにわかることなのだが、

苻堅自身は、本来は皇帝を継ぐべき嫡流ではなかった、ということだ。

 

先代の皇帝苻生が暴君により、

廷臣の反乱が起きた。

その結果、苻堅が迎え入れられたという経緯である。

 

苻生の血は苻堅には入っていない。

 

従兄弟同士なので祖父母は同じであり親戚であるが、

当時、今もそうだと思うが、

兄弟はそれぞれ別の家を建てるので、

系統は別である。

 

今よりも当時の方がこの感覚は厳密だということは強調したい。

苻堅の場合には父が本家から分流した家の祖であり、

嫡流の苻生とは別系統になる。

 

何よりも重要なのは、

財産権が異なる。

 

嫡流から幾分かは与えられるが、その後は

自分たちで財産を築き、管理することになる。

 

なお、これは、遊牧民、狩猟民などの

いわゆる異民族の場合はより厳格である。

 

さて、そうした背景があって、

苻堅が皇帝を受け継いだ。

 

別系統、別の家が継ぐ。

 

●我が血統こそ嫡流=「世」の意味。

 

そもそも皇帝というのは、

大元の皇帝(前漢であれば劉邦。太祖。)が天命を受けて、

その子孫がその天命を代行するというものである。

 

どこぞの本流がこの天命を受けるのであり、

同じ劉氏であっても、

関係がない、ということに最後は至る。

 

しかしなんらかの理由で、

本流がこの天命の代行ができなくなった時に、

別の家が、この大元の祖先を祀り、

天命を代行する。

 

となればこの家が今後は

天命の代行者=皇帝となる。

 

話が長くなったが、

結論、

この宣言が、世祖、世宗である。

 

天命を受けた人物ではないが、

新しい世を創った、という功績を背景に、

今後はこの人物の子孫が

天命の代行者となる。

 

天命を受けなおした、と言ってもよい。

 

それが、

前漢武帝、

後漢光武帝、

西晋武帝司馬炎、

前秦苻堅、

後燕慕容垂、

なのである。

 

彼らは実は、

ライバルがいて、自身が皇帝となった背景がある。

 

武帝は廃嫡された兄の後を受けて、皇太子となった。

光武帝は群雄割拠で、前漢劉氏の血筋であるが、同程度の血統はいくらでもあった。

司馬炎は弟の方が後継者として優れていると言われ続けた。

苻堅は本来は皇帝となり得る系統ではなかった。

慕容垂は異母兄の皇帝慕容儁に徹底的に嫌われた。そもそも第五子であり、兄で皇帝の慕容儁とは、

母も異なり、後を継げる系統ではなかった。

 

 

つまり、世祖というのは、

後を継げる系統ではなかった、

もしくは疑義があったのに、

継いだ。

そして、今後はこの系統が後を継ぐのだ、

という意味合いを含んでいる。

 

●この血統が嫡流だという宣言が「世」。

 

この世祖という廟号が含む意味合いについて、

上記にて説明した。

 

ところで、

この意味が発動するタイミングはいつなのか。

 

これがもう一つ重要である。

 

廟号なので当然、廟号を贈られる当事者が死んでからになる。

 

基本的には喪が明ける3年後となる。

 

ここで重要なのは、

世祖とする意図は誰が持つのか、

ということだ。

 

これには二つのパターンがある。

 

一つ目は先代の皇帝、つまり世祖という廟号を贈られる

人間が遺言として決めたパターンだ。

 

今後は、自分の子孫のみが

後を継ぐ。

 

ほかの系統は許さない。

 

二つ目は、

後継者がそう決めるということだ。

 

自分自身の系統のみが後を継ぐ。

 

父こそ世祖であり、その子孫だけが後を継ぐ。

父の兄弟にはその権利はないと。

 

ここまで細かくなると、

流石に事実を辿ることは難しい。

 

だが、

西晋の司馬炎が世祖となったのは、

司馬炎が確実に決めていただろうというのは、

察しがつく。

 

そもそも、

司馬炎は父司馬昭の後継者として、

同母弟司馬攸と水面下で争った。

 

賈充の後援もあり、辛くも後継者の座を

獲得した司馬炎だったが、

この問題は、司馬炎が禅譲を成功させ、

皇帝となってからも、尾を引いた。

 

今度は、司馬炎自身の後継者として、

司馬攸の方が良いのではないか、という

輿論が生まれた。

 

それは、

司馬炎の嫡男司馬衷(のちの西晋恵帝)が

暗愚と言われていたからで、

それよりも、儒教君子の司馬攸の方が

良いという議論が頻繁にされた。

 

司馬炎としては、

当然面白くない。

 

それでは司馬炎はただの中継ぎになってしまう。

 

皇帝となり、

呉を征服し、中華を統一しても

言われればそれは不快なことであっただろう。

 

結局、司馬炎は同母弟司馬攸を憤死させる。

 

それでも、40代半ばまで、

司馬炎自身、および自身の系統に

天命を受け継ぐのに、事実上難ありと言われた

というトラウマは消えない。

 

司馬炎自身の死後、

世祖武帝とするように、と遺言したはずだ。

これであれば、

ほかに系統がずれることはない。

 

世祖は光武帝のことで、

武帝は前漢武帝のことである。

両者とも

その実績から、その後自身の後継者しか、

皇帝になっていない。

 

なお、

父司馬昭は太祖であった。

 

司馬炎は前漢文帝のように太宗でもよかった。

また曹丕と同じく、高祖でもよかった。

 

しかし世祖だったのは、

自身の功績を世に確定させて、

自身の皇帝としてのポジションと、

自身の血統のみ、すなわち弟の系統を排除したかったからである。

 

●太武帝が「世祖」=漢化の一つ。

 

最後に

北魏世祖太武帝の話に戻る。

 

実はこういった経緯から、

太武帝は本来は世祖である必要はなかった。

 

父明元帝の嫡男であり、

実力も申し分がない。

 

確かに華北を統一したが、

前漢武帝や光武帝、司馬炎のように、

中華を統一したわけではない。

 

ではなぜ世祖なのか。

 

結論として、

これは太武帝の最晩年から後継者争いが起きたためである。

 

宦官の宗愛が太武帝を殺害し、

太武帝の末子拓跋余を後継者とした。

しかしながら、この拓跋余が宗愛の思い通りにならず、

結局殺害。

これを見た、ほかの廷臣が宗愛を誅殺して、

結局元の皇太子の嫡子で12歳の文成帝を建てた。

 

これは太武帝の死後1年以内の出来事である。

 

文成帝サイドとしては、文成帝の叔父拓跋余の皇帝即位はなかったこととし、

太武帝が死んですぐに

文成帝が皇帝になった、ということにした。

 

しかしながら、

太武帝は44歳で殺されていて、

太武帝の同世代の皇族がまだ健在である。

例えば太武帝の弟の拓跋崇は453年に

実際に反乱を計画している。

 

異民族の部族社会の気質を色濃く残している

北魏において、

12歳の文成帝が後を継ぐのは本来は、

非常に困難である。

 

弱肉強食のロジックが通じる北魏では、

本来は難しかったものの、

ここを中華の論理、文成帝の祖父太武帝に

世祖という廟号を贈り、

ほかの系統をまずは排除する、

皇帝にさせない、という

名分をつけて、

後継者争いを沈静化させる。

 

これこそ、

北魏の強み、

異民族と中華のいいとこ取りをする、

という面が良い意味で出た、事件である。

 

 

 

なんとなく私も含めて、

世祖の意味合いは、

新しい世を創った、中華や華北を統一したから、

世祖だ、と思っている人が多いと思うが、

これは違う。

 

のちにフビライも世祖、明の永楽帝も世祖(成祖)

だが、その本当の意味は、

この人、世祖の系統だけが皇帝位を継ぐの意味である。

劉備こそが漢王朝永続論の象徴である。

 

表題の通り、

結論として、

劉備こそが漢王朝は永続すべきという思想の象徴である。

 

●蜀漢劉備が体現する「漢王朝永続論」

 

曹操・曹丕が、漢王朝を滅亡させるまで、

漢の皇帝というのは永続するもの、不変的なものであった。

 

王粲が曹操を称える詩の中で、

曹操を周公旦になぞらえたのはその表れである。

 

周の幼い成王を抱えて、周を支えた周公旦のように、

曹操も後漢王朝を支えて欲しい。

 

このような思いが、後漢末には一般的であった。

 

しかし、曹操・曹丕の結論は、禅譲であった。

皇帝は劉氏が永続するものという魅力的なストーリーを、

曹操・曹丕は破壊した。

 

非常に現実的な実力主義の権化に

中華皇帝という存在を変えてしまったのである。

 

一方で、

劉備は、

曹丕による禅譲を簒奪とみなし、

漢王朝は永続する、献帝は曹丕に殺されたはずだ、として

漢王朝を受け継ぐ。

 

この劉備の主張こそ、漢王朝永続論である。

 

●東晋で復活する「修正漢王朝永続論」

 

だがこれも、

劉備の子、劉禅の代で蜀漢が滅びることで、

一旦終わる。

 

匈奴の劉淵が五胡十六国時代に建国した漢は

さらに劉備・劉禅を受け継ぐものだが、

これも一過性のものに過ぎない。

 

●桓温の台頭が漢王朝永続論を復活させる。

 

本格的に復活するのは、

東晋で桓温が台頭する時期である。

 

台頭する桓温の実力主義的な香りを、

皇帝を取り巻く、貴族名族たちが曹操の実力主義と

重ねて認識。

 

これを

漢晋春秋で簡単に言えば、

弾圧する。

 

本来、魏から禅譲を受けて西晋・東晋は皇帝となっているのに、

それを否定して、

劉備・劉禅の蜀漢を受け継ぐとしたのである。

 

このように、

歴史というのは時の権力者によって、

コロコロ解釈が変わるものである。

 

禅譲を成功させた後継王朝、

この場合は東晋としては、

今度は東晋という王朝が誰かに

禅譲をするというリスクが発生する。

 

それが、

曹操・曹丕の禅譲という手法である。

 

しかし当然であるが、

現王朝としてはそれを否定したい。

 

自分たちが永続的に続くとしたい。

 

そうなると、

結局漢王朝のときのように、

漢の皇帝が永続的に続くように自分たちも

続くのだという

ロジックを

全面に押し出したくなる。

 

これにより、

劉備・劉禅らの蜀漢は、

100年以上の時を経て、政治の表舞台に立つ。

 

●五胡の君主は実力主義の体現者曹操が好き。

 

一方で、

五胡十六国時代にあらわれる、

異民族の君主たちは、

曹操でありたいと思っている。

 

それも当然である。

異民族の君主たちは、実力で皇帝・天王となったのである。

さらに異民族の風習は常に弱肉強食で、

曹操の主張する実力主義は受け入れやすいのである。

 

中華の歴史というのは、

漢民族と異民族の対立の歴史とも言える。

こうした経緯で、

それぞれの陣営に

劉備と曹操という存在が象徴として

崇め奉られるという構図になる。

 

●北宋と南宋、立ち位置の違い。

 

時代は下って、

北宋と南宋は、

この曹操・劉備のイデオロギー対立において、

それぞれ異なる立場をとる。

 

北宋と南宋は本来、宋王朝という同じ王朝であるにも

かかわらず、である。

 

北宋は曹操を評価したが、

南に逃げて南宋になったら劉備を評価した。

 

それは、

北宋は実力主義で皇帝となったのであり、

さらに曹操の本拠地鄴の側に帝都開封があった。

曹操の魏に自らをなぞらえやすかった。

 

しかし、

女真族という異民族の金の侵攻により、

北宋は南に追いやられる。

 

歴史的には南宋と呼ばれる。

これはかつての東晋と同じような存在である。

 

異民族に追い払われ、南に逃げるも、

長江という天嶮に守られて命脈を保つ。

 

南宋は唯一無二の帝国である。

異民族女真族の実力主義的なやり方は、

認められない。

 

こうなると、漢王朝永続論という思想を主張するしかなくなる。

劉備を評価するしかなくなる。

 

●明の歴史解釈変更。

 

この、思想上の、劉備と曹操の対立。

 

これが最もわかりやすい形で、

世に出たのが、三国志演義である。

 

三国志演義は明の羅漢中が書いた。 

 

三国志演義は、

劉備が主役である。

 

正史三国志は、

西晋の時代に、西晋に仕える旧蜀漢の官僚、陳寿が

編纂した。

当然、結論は西晋を称えるものであり、

西晋が受け継いだ魏を中心とした書物である。

 

それを明は自分たちの正当性主張のため、

思想転換したのである。歴史解釈の変更を行った。

改変である。

 

●明が劉備を支持する理由。

 

それは

明が江南から興った漢民族の王朝であるからだ。

 

元という異民族モンゴルを追い払って、

中華の地を取り戻した王朝だからである。

 

曹操のような実力主義ではなく、

劉備のようにあるべしと明は主張したいのだ。

 

実は、

勢力図としても、

明は、東晋や南宋と似ている。

 

元は北に去ったとはいえ、

漠北のモンゴル高原の地で、依然として高い軍事力を擁している。

 

ここを北と見ると、

万里の長城の南は明である。

 

その対立の構図は、

東晋が長江を挟んで北の異民族王朝との対立、

南宋が淮水を挟んで女真族の金と対立する構図と同じである。

 

河が、山に代わっただけである。

 

北に脅威を抱える中華王朝は

自分たちの永続性を訴えるために、

漢王朝永続論に自らをなぞらえる。

 

その時に、劉備という存在が

現れるのである。

 

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なぜ北魏は「魏」なのか。

 

●なぜ北魏は「魏」なのか。

 

禅譲論(易姓革命容認)の対局に

位置するのが、

漢王朝永続論。

この感覚に最も近くて我々日本人が

ダイレクトに実感できる概念、

それは本邦の万世一系である。

 

王朝交代はありえないとする考え方である。

 

東晋は、

自身を漢の後継者に位置付け、

それにより禅譲、易姓革命を否定する。

 

東晋が 漢から受けている以上、

ロジックとしては苦しいが、

それは、曹魏が横暴(つまり禅譲と言う名の簒奪)

なことをしたためであって、自分たちは

漢王朝永続論を支持しているよ、

という立場に立つ。

 

これに対抗するため、

北魏拓跋珪は魏を受け継ぐことにした。

 

結論としては、

曹操・曹丕が建てた魏(曹魏)と、

拓跋珪が建国した魏(北魏)は

実はつながっているのである。

 

これを証明するためには、

曹操・曹丕の魏と

北魏を

分けて説明しなくてはならない。

 

 

●曹魏の位置づけ。

 

 

曹操・曹丕が創った魏。曹魏とも言われるが、

この王朝は歴史上初めて禅譲をして、

皇帝の代を重ねた。

 

この禅譲劇をどう捉えるか。

この曹魏の捉え方が、王朝ごとに変わる。

 

王莽の新は史観によっては存在を認められない。

だが、曹魏は存在自体は認められる。

 

その歴史的位置づけ、解釈の問題である。

 

曹操・曹丕が企画した禅譲というのは、

実力主義的である。

 

北魏を建国した拓跋珪。

 

曹操・曹丕の禅譲は当時認められない考え方が主流だった。

 

しかし拓跋珪が鮮卑拓跋氏勢力を復活させたとき、

代であったが、3カ月後に魏に変更した。

 

それは、

曹操・曹丕の魏を受け継ぐ形での「魏」である。

 

なぜ「魏」だったのか。

 

●拓跋氏が名乗っていた「代」の意義。

 

代という国号は、

西晋の最後の皇帝愍帝からもらったものであった。

これは異民族勢力として初めて、

一文字国号を名乗れたという快挙であった。

だが時代は下り、

拓跋珪の時代では、

既に時代遅れといえた。

 

西晋は滅亡し、

その残党の東晋が江南で復興していたとはいえ、

同じ王朝とは言い難い。

 

既に西晋・東晋勢力が華北からいなくなってから、

70年あまり。

 

拓跋珪自身としても、

祖先の歴史こそ知っていたと思うが、

自分自身に何の関係もない。

 

当時は、

383年に苻堅が淝水の戦いに敗れて、

漢人とそれぞれの異民族が分かれて、

争い合う時期。

 

鮮卑慕容部の後燕、羌族姚氏の後秦などが立ち上がりつつある。

 

その中で、代という国号は弱かった。

代の由来は中華の隅っこで元々異民族の地。

後燕、後秦と張り合うには弱い。

 

それに鮮卑拓跋氏は、

376年に苻堅に滅ぼされたとはいえ、

それまでは、異民族の中でも強い勢力であった。

 

西晋の時代においては、

事実上匈奴の後継者としての扱いを受けたぐらいなのに、

ほかの異民族の格下というわけにはいかない。

 

そこで、

拓跋珪が考えた結果が「魏」という国号である。

 

●血統上のつながりがなくても漢を名乗る匈奴の劉淵

 

北魏が魏という国号である理由。

 

それは匈奴が漢を名乗ったためである。

 

匈奴は八王の乱の最中、

西晋から独立し、漢を名乗った。

 

それは、匈奴が前漢の劉邦と戦い、

その講和条約のおいて、

兄弟の契りを交わしたことによる。

(兄が匈奴、弟が前漢)

 

その由来があるからこそ、

後漢に降った匈奴の単于は劉氏を名乗った。

 

それをさらに引用して、

劉淵は漢を名乗る。

匈奴でもいいのに、

長らく漢地に留まっていた劉淵は漢化していた。

 

自立する際に

自分たちを表現する言葉が「漢」としか思いつかなかった。

 

 匈奴出身の劉淵が漢を継ぐ。

西晋への対抗上の概念であった。

 

劉淵が宗廟(先祖を祀る)に祀ったのは下記の8人である。

 

【三祖】
太祖高皇帝劉邦
世祖光武帝劉秀
烈祖昭烈帝劉備
【五宗】
太宗文帝劉恒
世宗武帝劉徹
中宗宣帝劉詢
顕宗明帝劉荘
粛宗章帝劉炟

 

 匈奴出身なのに、冒頓単于を祀るのではないのである。

血縁でもないのに、漢の皇帝を祀るのである。

 

王朝を継承するのに、

血統の根拠が必要がなくなった瞬間であった。

 

 ●劉淵は西晋否定のために漢民族の「漢」を継ぐ。

 

義理の兄弟だからという理由で

漢を名乗った劉淵。

血統は関係がなく昔の王朝を継げる。

 

劉淵が漢を名乗った真意は、

西晋への対抗からであった。

 

すなわち、

西晋は魏から禅譲を受けている。

そもそも魏の禅譲は簒奪だ。

簒奪というのは不適切な行為なので

認められない。

 

だから、魏と西晋を否定する。

 

そもそも魏が簒奪した漢王朝こそ、

永遠に続くべきだった。

 

事実、これは後漢末の一つの思想であったし、

劉備、劉禅の蜀漢もこの考え方に則っているものであった。

 

西晋の蜀漢討伐により、

この思想は途絶えたが、

これを

劉淵が復活させたのである。

 

●拓跋珪が魏を選んだ理由。

 

さて、北魏の拓跋珪の話に戻る。

 

匈奴は後漢の中期に事実上滅びて、

その後に北方で勃興したのが、

鮮卑であった。

 

鮮卑にも色々な部族があるが、

その中で西晋と密接に結びついたのが

拓跋珪出身の鮮卑拓跋氏であった。

 

これは事実上匈奴の後継者である。

 

それが紆余曲折を経て、

386年に代として復興する。

 

しかし上記のように代という国号は役不足。

 

それで考えた。

 

劉淵が漢を名乗ったように、

拓跋珪が名乗れる国号はないのか。

 

血統がつながってなくてもいい。

劉淵は血統なしに漢を継承したからである。

 

鮮卑拓跋氏が中華王朝との接点があり、

東晋はもちろん、後燕・後秦に負けないぐらい

格の高い国号。

 

それが曹操・曹丕の建てた「魏」であった。

 

そもそも鮮卑拓跋氏という存在が、

書物上で認識されたのは

曹魏の時代である。

 

258年に鮮卑拓跋氏が朝貢をしたことに始まる。

 

朝貢というのは、

貢物を持って挨拶に出かけ、

朝議に出席して、儀礼に参加することである。

 

異民族の鮮卑拓跋氏が中華のやり方に従う。

 

その代わり、お土産をたくさん持たせてくれる、というわけである。

 

鮮卑拓跋氏が世に出たのは魏の時代である。

 

匈奴のように、兄弟の契りをしたわけではないが、

これをきっかけとして、魏の天命を継ぐ、と拡大解釈したわけである。

 

●東晋へのイデオロギー対抗上の「魏」

 

曹魏を継ぐというのはとてもよかった。

 

まず、

東晋は、魏からの禅譲という由来を事実上捨てていた。

 

漢を継いで晋は永続的に続くという概念であった。

 

魏は正当な理由で漢から禅譲を受けたとすれば、

例えば王莽などは劉邦の霊魂から禅譲を受けたことになっているので、

何とでも言える。

 

魏の由来を捨てた東晋に、真っ向対抗できるのは魏である。

 

また、

戦国時代における格としても、

後燕の燕、後秦の秦に負けていない。

 

むしろ、魏は燕よりも格は上であろう。

 

魏は中華の先進地域を支配しており、

拓跋珪が今後中華エリアに進出するには、

とても都合が良い国号である。

 

拓跋珪は、

曹操・曹丕の魏とは、

ほぼ全く関係がない。

 

ただ一つだけあるのは、

鮮卑拓跋氏が初めて朝貢をした先が魏だったというだけである。

 

それが、

時代背景、皇帝や王朝に関する考え方により、

異民族鮮卑拓跋氏の拓跋珪が魏を名乗るという

事態にまで至るのである。